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電信網の建設

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 維新政府は二年から電信線の架設を開始した。開拓使でも電信線の架設を計画するが、工部省の計画とかみあわず実現の見通しがなかった。そのため札幌本道工事の建設にあわせて、定額金からの支出で、開拓使独自に電信線を架設することにして太政官へ伺った。そして五年六月、札幌本道に沿って札幌まで電信線を架設することが決定した。次いで八月には青森函館間の海底電信架線が決定し、さらに六年一月小樽札幌間の電信線の架設が決定した。
 稟裁後すぐ開拓使は、肥後盛之ほかを電信掛にして準備に入った。工部省と交渉し電線その他の器具を借り入れた。器具据え付けは電信寮、路線測量も工部省に依頼した。七月から電信局の設置に入り、八月から測量にかかった。十二月青森函館間の海底電信線の工事を開始し、六年九月に竣工した。函館小樽間も七年十月に竣工した。七年十二月公用通信を開始し、八年三月札幌に函館など六カ所と一緒に電報局が開局し、一般の公衆電報も開始された(新北海道史第三巻)。現北大通西二丁目の南西部に電信局を開設した。
 この電信の開設により、他地方からの情報がすばやく入手できるようになった。情報の伝達に時日がかかった北海道にとって、この情報伝達のスピードアップは重要であった。電信の効能の一例は、十二年一月の本庁舎の火事の例がある。十七日時間は不明だが、札幌の調所広丈から函館の時任為基へ第一報が入っている。それには「午後八時より本庁出火、大半焼失、未た鎮火せす」とある。小樽郡長北川誠一から「本庁失火の由、実に恐れ入り、永山其他へも報知せり」と午後十時には返電がはいる。さらに十時二十五分には函館の時任から「本庁失火の趣、さぞ苦慮ならん、折角御尽力あれ、長官へもよろしく開申あれ、鎮火の上は委細御報知乞う」ときた。十一時五分小樽の金井信之村橋久成からは「本庁失火恐縮なり、依て即刻永山帰札す、尤も下官の進退は如何すへきか、長官の指令を待つ、可然取扱有之度」ともきた。十七日中に他に二通の電報が入っている(本庁焼失一件録 道文三〇五八)。午後八時の火事発生の後わずか三時間余で、まだ本庁炎上中から電信をかわしている。この内容を問題にする気はないが、時間経過の短さは電信のおかげである。