開拓使は新しい農業・畜産の移植や試験、その担い手の育成を懸命に行ったが、山林政策においては藩政時代の蝦夷山濫伐の結果に対する反省もあって、藩政・幕政時代の方針を踏襲したむしろ保守的な保護・管理政策が主であった。
明治四年正月、開拓使では札幌郡内各村役人に対し、櫟(いちい)(棋楠樹)・刺楸(はりぎり)(刺桐)・槐(えんじゆ)・桜・桂・椴(とど)・桑の禁伐を諭告した。但し椴の家木の分は許された。同年二月火薬用の白楊(どろのき)も伐採が禁止された。三月には野火を堅く禁じた。このように禁制の達に始まった山林政策は、以後様々な規則類を出しながら整えられていく。
札幌周辺移民の増加を背景に、四年中に松・杉・檜・桐等の苗を移植し、年々その頒布を行った。六年中には札幌市民伐木場が手稲村に設けられ、官道両側の樹木は家屋・電信線の設営に支障のある場合を除いて禁伐と定め、また厚別・発寒・円山・発垂別・真駒内・簾舞・野津幌の七カ所を土木を起こす用材山として官林に指定した。この時、山林事務は工業局営繕掛から民事局に移った。
七年一月伐木規則五カ条の中で家作材等の伐採手続を定め、移民や伐木業者等の無願伐採に備えた。十年二月、四年正月の禁伐樹種へ落葉松・蝦夷松・五葉松・厚朴(ほお)・胡桃・栗・巖楓(いたやもみじ)・石楢・谷月桂(やちだも)を加えて一六種とし、薪炭材にすることを禁じた。
開拓使がお雇い外人へ山林保護の方法を問うたのは丁度この二月であった。札幌農学校教頭クラークに対する質問は一四カ条に及び、内容は山林の法制から樹木の伐採年度にまでいたる具体的なものであった。たとえば「札幌近傍三里許ノ山林ハ監守幾人ニテ適当ナルヤ」、また、火道(防火線)の札幌近傍の山林へ施行することの可否、「札幌近傍何ノ山林ヲ保存スヘキヤ」などは、札幌を特定した質問である。これに対するクラークの答弁はきわめて概括的であり、山林の管理や資源の将来については楽観的であった。たとえば「近世開化ノ国ニ於テハ政府保護ノ樹林甚稀ナリ」とか「現今ニテハ材木生育栽植ニ大金ヲ費スハ良策ニアラス、札幌近傍猶然リ、況ヤ是ヨリ西南地方広漠タル山林今ヨリ百年間ハ此人民ノ需用ニ供スルニ足ルヘキナリ」とかの言葉がみえる(開拓使事業報告 第一編 地理―山林)。
クラークに限らず当時の米国人顧問団の林業に対する考え方は、林木の消費・利用面を重視したものであり、木材の経済的利用の方法について具体的な提案をしている。それらの成果の一つは札幌本庁工業局の木工関係機械所であり、厚別山水車機械所であった。もちろんケプロンが予想した様な、木挽機械を中心とした機械制工場設置のもたらす経済的効果は実現しなかった。
「管理ノ至レルモノ少ナカラ」ざる「仏蘭西・日耳曼(ゲルマン)其他欧州諸国」とは違う「南北亜墨利加ノ如キ近世開化ノ国」から来たケプロンやクラークに、山林保全の意識が希薄であったとしても無理からぬことである。まして当時の札幌周辺の山はなお、美林をもってきこえていたのである。