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官業時代末期の不況

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 明治十年代前半、紙幣の急激な増発により企業の勃興を促したが、物価高騰をも引き起こしていた。一方札幌にあっても、開拓使自ら市民に耐久家屋、土蔵の建築資金を貸与し、市況の活性化を計った。十四年十月大蔵卿松方正義は、増発された紙幣の償却を実行した。そのため物価は低落の傾向を示した。しかし商況の不振は金融・農・工・水産各業に及び、十八年まで続いた。その事情の例証を各年度の『札幌県勧業年報』によって記載してみる。
漁家近来累年ノ不漁積ンデ益々困難ヲ重ネ、余響忽チ商況ニ波及シ頻リニ萎靡ノ色ヲ現ハシ、管下商運衰頽ニ瀕セントス。之ニ加フルニ他道各地ノ不景気ハ益々物価ノ低落ヲ促シ、既有ノ商品ハ一モ損失ヲ免ルヽモノナク、偶々売品欠乏ヲ告ケ止ムヲ得スシテ之ヲ買ヘハ則チ必ス損失アルノ状況ニ陥リ(明治十六年)
無資力ナル移住民等目下ノ活路ヲ求メンガ為メ続々札幌ニ輻輳シ、ソノ業ノ何タルヲ論セス、賃銭ノ高低ヲ問ハス。之ニ従事スルヲ以テ工人日ニ増シ傭賃月ニ落チ大ニ職工ニ妨害ヲ与ヘタリ(明治十七年)
世上一般ノ不景気ヨリ商勢ニ進取活発ノ気衆乏シク、退縮守成古格ヲ保存スルヲ以テ金融ハ益々円滑ナラス。物価ハ漸ク低落シ細商ニ至リテハ困弊シ僅ニ口ヲ糊スルノミ……本年鰊漁ノ薄カラザルニモ拘ハラス価格非常ニ低落シテ著シク冷況ヲ呈シ、商業殆ント衰頽ノ色ヲ現セリ(明治十八年)

 このような状況下、開拓使より資金の貸与を受け、土蔵など耐久家屋の建築を行った資産ある市民の中に返済延期を願い出るものも現われた。札幌県はその対策にも苦慮した。
 札幌での物価低落の様子を米価の推移で見ると表18のようである。これにより物価低落の状況の一面を読み取ることができるであろう。
表-18 精米年平均札幌価格
明治14年15年16年17年18年
価格10円83011円2507円8426円4837円642
札幌県勧業年報』第1~4回より作成。

 この間十五年に北海道開拓使が廃止され、札幌・函館・根室三県の分治となった。開拓使傘下にあった諸工場、幌内鉄道などは北海道事業管理局に属したため、政令一ならぬ状況を呈した。諸工場は採算面が重視されたため、不況下の農産物の買上げ数量も縮小される結果となった。一方幌内鉄道も採算を問題にした高運賃であった。この高運賃については、十八年七月北海道の拓殖事情を視察した金子堅太郎の「北海道三県巡視復命書」の中にも見られる。
県庁ハ牧民主義ヲ以テ政務ヲ施行シ、管理局ハ営繕主義ニ依リ事業ヲ経営セリ。故ヲ以テ両所互ニ其意見ヲ異ニシ調和ヲ欠クコト往々之アリ。今其一例ヲ挙レバ、札幌管内ニ於テ、県庁ハ人民ヲシテ日常須要ノ物品ヲ可成的、低価ニ購求セシムルノ便利ヲ開キ、以テ各自ノ生活ヲ容易ニセシメント企図スルモ、管理局ハ之ニ反シ営業主義ヲ以テ鉄道事業ヲ経営スレバ、非常ノ運賃ヲ物品ニ賦課シテ、鉄道ノ収益ヲ増加セント欲スルガ故ニ、札幌ノ人民ハ鉄道ノ便利アルニモ拘ハラズ、依然高価ノ物品ヲ購求セザルヲ得ス。即チ札幌、小樽ノ鉄道線路ハ八里余ニシテ、米一石ノ運賃金四〇銭ナリ。而シテ東京、横浜鉄道ノ里程ハ、殆ンド札幌、小樽ノ鉄道ニ同ジキモ、米一石ノ運賃ハ僅ニ金六銭ナルヲ以テ、県庁ハコノ運賃ヲ低下センコトヲ管理局ニ謀ルモ、協議遂ニ調ハザル如キ是レナリ

 この不況下、幌内鉄道の高運賃は市民の苦境を一層深刻化した。そのため札幌の商業人佐藤金治後藤半七木原慶輔、多田武雄ら一五人が連署し、十八年十一月十日農商務卿西郷従道に鉄道運賃減額の請願書を提出した。この高運賃は十九年四月、さらに二十一年一月、北海道庁布達で低運賃に改められた。その収入の不足は道庁経費で補充されることになった。このため物価も安定し、この運動も一応おさまった。