四年の辛未移民も、組及び組頭制がとられていた。『仕上ケ御勘定帳』には四年四月に、
以上の四組がみえる。①は篠路村に移住した元南部藩士一〇戸で、五月の金の個所では大畑岩次郎組とみえ、宮野から大畑に組頭が交代したらしい。②は千歳道(月寒村)に入植する。③は円山村入植の予定が変更となり、花畔村に行く。組頭は四月中に一方井茂内のみとなった。④も発寒村の予定が対雁村にかわる。以上の四組のうち、①②④は六月から組名が消え、篠路村人員などの記載にかわっている。③のみ六月に円山村一方井茂内組と記すが、七月以降花畔村人員に吸収されたらしく消えている。
このように辛未移民も組、組頭制をとっていたが、入植後間もなく廃止されていた。これは在来村や庚午移民の諸村ではすでに村役人がおかれており、組頭の名称が村役人と同一のためまぎらわしいことによるのだろう。その結果、組頭の名称を廃したがその役割を継承しておかれたのが、村取締あるいは農夫取締とみられる。
月寒村では四年七月において月寒村取締として駒ケ嶺弥太郎、岩井沢弥七郎、中田市之助の三人が確認できる。村取締は八月に村役人にかわり、入札により名主に四戸安蔵、組頭に岩瀬末治、百姓代に米内宗吉が選ばれている(評議留)。
花畔村には農夫取締がいた。四年七月に組頭となった小川右十郎はもと農夫取締であったし、山下吉之助も四年十月まで鬱苗(花畔村)の農夫取締であった。
篠路村に入植した辛未移民の組頭であった大畑善次郎も、その後組頭から農夫取締になり、四年十月に差免されている(細大日記 市史 第六巻)。
以上の諸例をみると、村取締・農夫取締は組頭から村役人までの移行期に、組頭の役割を引き継ぎ開墾指導と移民取締を眼目とした、便宜的な村役人制度であったとみることができる。