開拓使が設置されるまでの札幌地方の開墾地は、いわゆる在住制ないし御手作場の制度の下にあり、そこに働く農民や土着の武士身分の者の土地は開墾目的のものに対する「割渡し」であり、在住している限りは「被下切」という表現でその保有が保証されていた。そして役所の都合で買上げられた例もあったが、いまだ近世的土地制度の下にあったことはいうまでもない。
明治二年七月、太政官は「蝦夷地開拓之儀、先般御下問モ有之候通ニ付、今後諸藩士族幷庶民ニ至迄志願次第申出候ハヽ、相応之地処割渡開拓可被仰付候事」との布告を出し、北海道の新しい土地処分制度の口切りを行った。以後、いくつか対象をかえて開墾者への土地処分規定が出され、次第に近代法制に近づいていく。政府も五年以来、土地永代売買の禁を解き、土地の売買・譲渡については地券交付を定め、六年からは地租改正事業を開始するなど着々と土地制度近代化の政策を施行していた。北海道では近代法的意味での無所有地へ新たな所有権制度を植えつける事業と、一部分ながら古い慣行で維持されてきた土地保有制度の改革という二つの事が同時に進行したのである。
五年六月、札幌開拓使庁管轄の諸郡に対し、開墾地所出願者は一戸に付、一〇万坪を限って割渡すこと、そして土地(荒蕪地の場合)は、一〇〇〇坪に付金一円、一〇〇坪に付新貨一〇銭、一〇坪に付同一銭の納金で永く沽券地とすることを布達した。これは、土地の処分面積を定め、同時に土地代金を徴収して土地を売下げる方法を初めて採用したことにより、この後の土地処分の方法の原型となったものである。この布達はとりあえず札幌管下諸郡にのみ適用したが、同年九月本布達を整備した形の北海道土地売貸規則が定められた。この第一条に「原野山林等一切ノ土地、官属及従前拝借ノ分、目下私有タラシムル地ヲ除ノ外、都テ売下、地券ヲ渡、永ク私有地ニ申付ル事」とあり、ここに私有、売下、地券といった近代法的用語と手続が初めて表現されている。第四条には「既ニ私有スルノ土地ハ牧畜開墾等一切ノ産業ハ勿論、他人へ売却スルモ其地主ノ自由タルヘシ」などの文言も見える。本規則では一人一〇万坪の限度、地価は一〇〇〇坪上等一円五〇銭、中等一円、下等五〇銭、下手後一〇カ年は除租などの規定があり、十九年の土地払下規則の発布まで施行された。
北海道土地売貸規則と同時に、この規則全九条を含むより詳細な土地法制である全一九条の北海道地所規則が定められた。この両者について開拓使は、「北海道地方ノ内函館及ヒ其近傍既ニ部落整置、税則定リタル地ヲ除ノ外、各処ノ市在拝借地開墾地共其法未相立、依テ今般開墾地並永住寄留ノ者是迄拝借屋敷地等ノ分共別記ノ通規則相立度、従前札幌部下ノ処ハ粗右等ノ法則ニ相定施行致シ候得共、最早闔管内同軌ノ御所置相成候様仕度……」などと述べ、前者は全国へ後者は開拓使管内へ、その布告を太政官に伺っている(開拓使日誌)。この文面によれば、札幌地方は旧開の道南地方とは異なった新しい土地法制施行の最初の試験地域、通過点としての役割をもっていたようである。