前記のように五年十一月に一般子弟に対して資生館への入学許可が布達されたが、志願者はなかった。そのため六年二月に戸長等が、まず筆算指南所を建てて一般子弟を教授し、そのうちの「可然者」を資生館へ通学させたいと願い(筆算所一件 道図)、同年四月に開校した。入学者はかなり急速に増加し、七年一月に五十余人に達したので、助教師を任命したが、同年八月に廃止となった。本府建設の一段落にともなう不況の余波を受けたといわれる。
一方、資生館も札幌学校と改称した。その時期は五年十一月(開拓使事業報告)と、六年六月(開拓使布令類聚)の二つの史料があるが、ここまでの史料、特に六年二月の史料で資生館の名称は存続しており、また松本十郎『札幌滞在事務取扱備忘誌』にも、六年に入っても、たとえば四月に資生館の「大試業」ほか相当数の同館記事があるので、ここでは六年六月としたい。また廃止された筆算所の子弟も希望者は学校に入学を許されることとなった。七年八月に札幌本庁は「札幌小(ママ)学校仮規則」、「札幌小学校仮内則」、「札幌学校仮規則」を布達したが、このうち「札幌学校仮教則」は生徒を六級に区分し、五・六級は漢学・習字、三・四級は漢学・習字・算術、一・二級は漢学・英学・算術を教授し、習字は任意として、さらに以上を「当分定置ト雖時宜ニ寄リ詮議ノ上更定ノ件モアルヘシ」(布令類聚)とした。札幌学校をより学制に近づける意思を持った布告とみてよい。ところが八年九月に東京の開拓使仮学校が札幌に移って札幌学校となったため、従来の札幌学校は通りの名にちなんで雨竜小学校と改称、同時に教則を改めてさらに普通教育に近づけた。