屯田兵村の場合は他の村落と異なり、屯田司令部により学校が設立され、運営された。このうち琴似村については、すでに七年に遠藤塾、富沢塾などがあり、屯田兵入地と共に八年七月に仮学校が設けられ、山鼻村でも兵員の自習をはかる組織が生まれた。これをふまえて屯田事務局では両村に経費各二三〇八円余で校舎建築に着手、西南の役で兵員が出動したため、七月に仮に授業を開始し、翌十一年、琴似村は三月、山鼻村は四月正式に開業した。なお生徒は屯田兵子弟に限らず、両村在住者の子弟を対象とした(開拓使公文録 道文五八七八)。
両校は、開校後も兵員扶助満期まで官の補助を得ることとし、「経費悉ク官給ヲ仰キ公立ノ名アルノミ」(開拓使事業報告)という、他に比して経費の面でも恵まれた立場にあったが、十四年十二月限りで諸経費の官給を廃止し、札幌県設置と共に教員給料の支給も廃止された。しかし、後述するように十五年七月から十六年六月に至る収入でも、県の補金が琴似学校七二〇円、山鼻学校六七二円で、他の村落部学校に比し、巨額と形容したいほどの金額であった。