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写真-5 明治12年頃の札幌農学校(学芸会雑誌第25号 北大図) |
十五年に開拓使が廃止されるにおよんで、同年三月に同校は農商務省の管轄下に入った。この前後に文部省所管の動きもあったが、農商務省は札幌農学校は北海道開拓遂行のため設置したものであることを強く主張して認められ、十六年には同省内に設置された北海道事業管理局の所轄となった。
第一回の卒業式は十三年七月に行われ、十三人が卒業し農学士の称号を与えられ、規定により開拓使御用掛に採用され、十四年には一〇人が卒業してやはり開拓使御用掛となった。しかし十五年に卒業した第三期生は、すでに開拓使が廃止されており函館・札幌・根室県、事業管理局でもあまり職が得られず、自由に職を求めることとなった。
この間施設も充実し、北講堂、寄宿舎、書庫、化学講堂、観象台、それに現在時計台として市民に親しまれている演武場が建設され、さらに植物園造りが進められ、札幌官園のうち約三〇万坪を管轄替えによって附属とし、モデルバーン(模範家畜房)なども建設した。
前記のように、札幌農学校は北海道全体の開拓推進のため設置したものであるが、それが札幌におかれたことにより、札幌という都市の性格形成にも大きな影響を与えた。その主要なものの一つはキリスト教の普及であった。すなわちクラークが聖書による徳育教育を行ったのを契機として一・二期生を中心にキリスト教を受容し、彼等によって教会もつくられ、次編の時期に至って布教も強力に推進された。また文化的諸活動も九年に結成された開識社等により活発に行われ、さらに十一年に始まった遊戯会も、札幌年中行事の一つとなっていった。
なお、五年に仮学校内に女学校が開設され、二人のオランダ女性らが教師として雇い入れられ、八年八月に札幌への移転がなされたが、翌九年五月に廃止された。