市街の発展に従って、開拓使は明治十一、二年頃から市街区画の改正に着手することにした。十二年以前に確定していた市街の区画改正と室蘭通(現西六丁目通)以西等の新区画の設定である。この新区画設定は十三年四月から翌年九月まで行われた。そのため十一年六月市街区画の測量、十三年五月市街区画改正のための測量がなされた(開拓使事業報告)。この両者の測量の実態は不明であるが、十一年七月の日付のある「北海道札幌之図」(北大図)は十一年の測量に基づいて作成されていると思われる。その図の大通以北の元官用地をみると、実態を示す黒線と改正線を示す朱線が見える。また十三、四年に新たに区画された地域も確定線の如く記載されている。新区画はすでに十一年五月から払い下げられており、おそらく十一年の測量は払下開始とともに行われ、十三、四年の区画確定の予定線をも示しているものと思われる。
十一年中に新区画に払下を受けた地主たちには、すでに十一年中に家屋を建築しているものもいた(地価創定請書 道文三一四八)。区画工事がなされる前に建築を開始したのであるから、おそらく道路予定線上に家屋を建築したものもあったと思われる。十三年市街区画工事が開始されたため、道路予定線上に家屋を建てた地主から、工事差止めかまたは延期の願いが区役所へ出された。区役所は、租税課に対して「当市街檜山通より以南、室蘭通より以西、道路建築ニ付、人民私有地建家等路線ニ係り候分、取扱方之義、過日区第五百七拾四号ヲ以テ及御照会置候処、未タ御回答も無之内、尚又渡島通八拾九番地鎌田久太郎地所、同前之趣ヲ以、別紙之通願出候処、右ハ即今建築着手ノ場合ニ付、取扱如何相心得可然哉」と問い合わせた。そこで地理課は十三年八月、札幌区役所に対して地主たちの意見を調べるように依頼した。十四年六月になってもその回答が来なかったため、地理課は再度区役所へ問い合わせた。しかしその回答は来なかった。開拓使は十五年に廃止されたため、その事業は札幌県に引き継がれた。引き継いだ札幌県勧業課地理係は、十六年三月に十四年の問い合わせの「回答ニ拠リ処分可致、御回答無之ヨリ未了之儘引継相成。然ルニ本願之儀ハ、当時道路修繕済ト被相考、且現今之処ニテハ、市街区画改正モ容易ニ行レ難ニ候得共、自然各地主意見申出、熟議之上ハ、不及出願儀ト相考候ニ付、本願書返戻候条、却下相成度候」という方針を示して、願いを却下した(札幌県治類典 道文八〇六二)。出願して三年目である。このように見てくると十三年に始まった区画改正事業は、家屋の移転や取壊しが必要になる部分は、家屋をそのままにして区画を確定したのであろう。