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札幌市街大下水の開削

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 札幌市街の下水設備については、明治四年春の札幌市街区画の計画図である「札幌区劃図」にすでに、道路敷地一一間のうち「三尺下水左右ニ掘、道巾十間」という記載があるから、札幌市街の区画のはじめから道路の側溝という形で設備されていたと考えられる。そして『開拓使事業報告』土木部の水利をみると、四年五月の市中下水の工事を皮切りに、市中及び周辺各村、そして街道に沿って下水が設備されたことがわかる。
 さらに札幌県時代には、市中の大下水設置が行われる。十八年、南六条~北一条間の西五丁目を通る大下水の開削工事が行われた。この大下水は後に市民から新川と呼ばれるものである(現在の新川とは異なる)。この大下水の計画は、早く十五年中に市民が「市街衛生上の義に付、協議の上、南六条より北壱条に至る西五丁目通へ、大下水新規堀割の義」を出願し、十六年四月に土木係などが県令へ稟議の上決定した。十六年六月、札幌区役所札幌県衛生課に対し、「当市街の下水を疎通するは、目下の急務と存候間、大下水並に道路横切下水等の御新設、可成速に御着手相成候様、御運ひ有之度」と申し入れている。さらに七月には「速に御着手相成候様、御取扱有之度」と督促している。衛生課に督促された土木課は、現在調査中であり、調査報告が出なければ確報できないと回答した。この大下水は十七年の秋になっても起工されなかった。そのため札幌区役所は、九月八日「該工事至急着手方、其筋へ御協議相成候様致度」と要求している。これらの要望について札幌県庁内では、土木課が衛生課に事業の都合をはかって起工の見込みであることを報告してきた。しかしこの九月、豊平川堤防工事が竣工した。札幌区役所はそれ以前に札幌県から、この堤防工事が竣工し鴨々川への大水門が完成しなければ大下水工事には着工できない旨、回答を受けていた。これはおそらく大下水への取水の関係もあろうと思われる。そこで札幌区役所は、九月十六日「右堤防工事竣工式御執行の場合に立至り候に付ては、折角市民の企望したる大下水之義も、此際引続御着手相願度情実、左之次第に候間、目下事業の御都合甚だ可然候得共、市街之状態御了察之上、総代人共の願意貫徹致候様、御評議相成度」と要求した。結局九月十七日土木課から「右は、事業の都合を以て、漸次着手可相成義に存候条、右様御含区内総代人共へ、可然御達置相成度候」と願いの筋は却下され、願書も返却された。
 この市街大下水ははじめは西六丁目を予定していたが、通水が不便であるとして十八年三月計画を変更し、南六条~北一条間の西五丁目、そこから西へ向かい西八丁目で杓子琴似川へ流す、さらに南七条西四丁目付近の胆振川から南六条西五丁目までも開削することにした。その際その南への延長分は市民が自費で施工することになった。区民は「各自微衷」をあらわすという名目で、大下水工事の費用として、公立病院補助金から一五〇〇円を支出することにした。
 大下水の工事は、十八年春からやっと札幌県側も重い腰をあげ、六月九日工事着工し、八月七日通水実験を開始している。竣工報告が見つからないので落成日は不明だが、八月中であろう(札幌県治類典 道文八二二一、八九二六、一〇二五七)。