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山口県士族の山口村移住

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 手稲区山口に移住したのは、山口県の東部にある玖珂郡の旧岩国藩領の士族を中心とした人びとである。ここも十年以降士族の窮乏が問題となり、旧藩主吉川家(きっかわけ)でも義済社をおこし養蚕、製糸、製紙などの授産につとめていた。北海道移住も義済社の授産策として行われたらしい。
 十四年四月に移住民総代となった宮崎源治右衛門等は調査に来道し、山口を適地と定め五月二十五日に三〇戸分、六〇万坪の地所仮割渡しを出願している(札幌県治類典 道文七四四〇)。彼らの開墾の方法は植産会社を設立し、共同で開墾や収益の分配を行うものであった。しかし開拓使では、法人手続を経ていない会社・結社への地所割渡しを認めず、入植者ごとに割渡しするようになり、植産会社の計画は破綻している。
 当初予定の三〇戸は離脱者が相次ぎ、十四年はわずか七、八戸にすぎなかった。そのために募集の範囲を広げ、玖珂郡のほかに熊毛・大島郡へも勧誘がなされ、士族のほかに農民も加えられた。十四、五年で六一戸一三四人が移住し、十五年十二月二十二日にここに山口村が新設された。
 十四年の出願書には五一人の名簿が添えられている。これをみると旧岩国藩領の今津・向今津・中津村(現岩国市)が多い。今津村には岩国藩の御用津があり、下士の御舟手組、足軽の御水夫が居住する屋敷町、米蔵などがあった。『岩国藩御家人帳』(明治四年、岩国市徴古館蔵)と先の名簿をくらべると、山口村へ実際に移住した柏村桃作は御舟手組、宮崎源治右衛門名嶋藤兵衛は御水夫となっている。今津の町屋敷を描いた『今津の図』(慶応二年、同館蔵)にも、山口村関係者の姓・名を確認できる。今津村の下級士族が移住の首唱者となったとみられる。

写真-2 今津の図 下段左端に宮崎源治右衛門の屋敷がある(慶応2年、部分 岩国徴古館蔵)


写真-3 士族屋敷のあった現在の岩国市今津町の通り

 大島郡の移住者は、瀬戸内海に浮かぶ平群島出身者が多い。ここには山口(萩)藩の海軍局の基地があり、在勤する下士が多くいた。平群島からは一六人の移住者が確認できる。しかし中には地所を返上していったん帰郷したが、移住士族取扱規則により今度は岩見沢村に再移住した者もみられる(中村英重 移住と開拓)。