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家屋改良

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 草創期札幌の商家や農家の住宅は、道南や本州の様式を導入したり一時しのぎの仮設住宅が多かった。開拓使は、札幌市街地の造成計画が一段落すると永久建造物の奨励に乗り出し、九年九月十五日、黒田長官の家屋改良の告諭が出された。そのなかで、衣食住の三者こそ人が生きていくうえでもっとも緊要のことと前置きし、具体的に次のように述べた。
就中家屋ハ防寒ノ最モ緊要ナルモノニシテ到底此ノ慣習ヲ改正セザレバ人民繁殖独立営業ノ基礎固定シ難キヲ以テ既ニ官庁学校病院等ヲ始メ逐次官設ノ家屋ハ西洋形ニ築造人民ノ模範ニ供シ誘導ノ道ヲ開ケリ然レトモ今日ニ至リ猶未タ此旨ヲ解シ得タル者無之相応ノ生計ヲ営ム者モ従来ノ弊習ヲ株守シ絶テ防寒ノ注意ナク依然タル薄溺ノ家屋ナリ(中略)欧米両洲ノ北方北海道ニ倍セル酷寒ノ地ニ住スル者ハ却テ氷雪ノ使ヲ得テ諸般ノ作業ヲ為セリ家屋ハ四壁堅牢ニシテ能ク外気ヲ閉チ煖爐ヲ用ヒ室内温和魚蝦禽獣ノ肉各種ノ菓実等ヲ貯蔵シ来夏就業ノ資用ニ充ツ(中略)今般農学校教師クラーク氏モ亦家屋ノ営構ト農事ノ作業ハ従来慣習ヲ排除シ尽ササレバ民産必ズ盛大ニ至ラス殊ニ家屋ノ改革ハ最モ急務ナル旨実ニ申述タリ
(開拓使公文録 道文六二〇七)

 この告諭に示されている当時の開拓使官僚の家屋改良への意図と熱意とを受けて、翌十月十二日付で各局分署に宛て通達を出し、欧米をモデルに家屋構造を防寒に適した建築構造に改良するよう指導を強めた(開拓使布令録)。さらに同年十二月十一日付で、具体的に家屋堅牢で外気を遮断し暖炉をもって室内暖かな欧米の例にならって、まず官庁病院学校をはじめすべて官衙の建物を調査し、箱火鉢を廃して暖炉を採用するよう諭達した(同前)。しかし、当時暖炉はあまりに高価であったため実効がともなわなかった。その代わりストーブ用の石造煙筒の設置が促されたが、これがしばしば火災の原因となり、十二年一月十七日の本庁舎焼失ともなり、不燃建築構造がもとめられた。
 札幌における不燃建造物の出現は、札幌郊外硬石山の石材が五年に発見されたり、あるいは江別で煉瓦が製造されるにおよんでようやく緒についた。十年には、庁下水原寅蔵が硬石山札幌軟石を用いた石造倉庫を五九五五円余をかけて建造し、開拓使から褒賞を受けている(開拓使公文録 道文五八六二)。
 黒田長官の家屋改良の熱意は、ロシア式家屋をも試みに札幌などに建築させた。黒田長官が十一年ロシア領ウラジオストック視察の際、職工を雇って帰国し、札幌に官舎二棟と小学校一棟を建てたが成功しなかった。
 十二年一月の本庁舎焼失後、開拓使は永久建造物の奨励に乗り出し、同年四月「家屋建築費貸与規則」を布達した。これにより石造・土蔵・木造の堅牢な建物を造る建築費総額五万円までの範囲内で貸付が行われることとなった。この場合、石造家屋は一戸一二坪で一八六〇円、木造家屋は一戸一六坪五合で四三五円とした。
 十二年には開拓使の洋式ホテル豊平館の建造が着工され、工事途中に明治天皇の北海道巡幸が決定したので、その宿所として十三年完成した。
 官舎を中心に洋式建築が取り入れられる一方、一般住宅の方でも変化がみられた。初期の家屋には煙出しの空窓があり、ここが採光場所であった。窓も木の格子窓や和紙張りの連子窓や障子・蔀戸が多かったが、十年ころからガラスが容易に手に入るようになり、ガラス戸が一般に普及しはじめた。