十三年、手宮・札幌間の幌内鉄道の着工そして開通は、文明開化のシンボルというべき蒸気機関車を札幌本府に乗り入れさせた。札幌市中の地価は鉄道開通に先立ってはね上り、「渡島通辺処売買相場一戸[表口五間 裏口廿七間] ニテ五百円已上創成橋より渡島通エ寄候地処ハ七八百円ヨリ千円位迨ニ」(十文字龍助関係文書 市史 第六巻)なっていた。また前年『函館新聞』が報じたごとく住宅においても、「裏通も多分家屋建揃候迨ニハ参不申共余程建揃此様子ニテ参候ハゝ一両年之内ニハ多分裏通共建揃ニ相成可申」(同前)といった勢いであった。地価査定の終了と鉄道建設が札幌市街に多少なりと影響をおよぼしたものであろう。請負業者のうちには鉄道建設工事で潤う者もいたようである。
札幌の人びとにとって手宮・札幌間の鉄道開通は、食料をはじめ日常必需品等物資の運搬を馬や馬車・ソリ等に頼ってきたゆえに大きな期待をもって歓迎された。しかし、鉄道開通後はじめての冬を迎えた翌十四年一月には、積雪のため運転停止がしばしばおこった。当時手宮・札幌間は一日一往復のみで、一回に三〇個もしくは五〇個の荷物しか輸送できず、小樽の停車場前は荷物の渋滞で諸荷物の山ができるありさまであった。このため札幌では、小樽からの荷物が充分に送られてこないので、日常の需要品に欠乏をきたしはじめた。この状態をみた札幌の総代人は、現地調査を行ったり、また札幌本庁でも協議の結果、義経号、弁慶号の二両を往復させることとした。すなわち三角形の雪除けをつけた弁慶号を前に、後には積荷をした義経号を連ねて運転し、四、五百人の人夫を雇って日々氷雪をはらうありさまであったという(函館新聞)。
札幌の物価は、米価に代表されるごとく年間を通して一定せず、冬期はことに夏期の一・五倍にもなったので、札幌の人びとはつねに物価高と物資の欠乏に悩まされた。表6は、明治十五年一年間の札幌の米価を小樽、室蘭と比較したものである。これによっても札幌が小樽、室蘭に比較して米価が高く、しかも夏期と冬期とでは一・五倍の格差があったことが知られる。米価以外のその他の日常必需品においても同様に、貨物輸送量いかんによるといった不安定さはまぬがれなかった。
表-6 明治15年米価高低比較表(1石当たり)
『札幌県勧業課第一年報』より作成。