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「公然売女」

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 このように、遊廓地の決定と実施が進行する一方で開拓使は、翌五年一月二十二日、太政官へ遊廓地を建設したことの追認を得るべく「公然売女」の免許申請を行った。それは、北海道に病院・医学校を建設することと同時になされたもので、次のような内容であった。
 此度北海道開拓人夫一万人程モ差遣シ有付テハ遠境ノ儀自然人夫トモ厭倦ノ道ヲ生シ候モ難計候ニ付妓楼ヲ立置公然売女免許仕候心得ニ御座候間此段御届申上置候也
  壬申正月廿三日  黒田開拓次官

(稟裁録 道文一〇六九七)


 すなわち、開拓人夫が一万人も札幌に集まるため、その足止め策として「妓楼」建設をしなければならないというのである。
 開拓使は、「公然売女」を「御届申上」ぐことで黙許されたと解したのか、これまで薄野遊廓内の「売女屋」を旅籠屋と称してきたが、公然と「遊女屋」を名乗ることとした。同年四月、開拓使は、薄野旅籠屋渡世のものを呼び出してその旨を布達している。こうして札幌の薄野遊廓は、「公然売女」を開拓使から公認された。すでに実態としては、「遊女屋」を営むものが一八軒に達していたし、廓内取締として行司三人がいた(市中諸願綴込)。