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写真

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 開拓使はその業務の必要上から、主としてその成果に関する写真を多数撮影させた。東久世開拓長官自身も三年九月に札幌で撮影をおこなった可能性があるが、今のところ確認はされていない。しかし翌四年には、開拓使は函館の写真師田本研造(音無榕山)に依頼して札幌・石狩・小樽等の写真を撮影させた。田本は幕末にロシア領事館の医師ゼレンスキーに学んで写真術を習得していたのである。これらの写真は翌五年に函館から東京に送られたが、このうち札幌本府関係としては開拓使仮本庁舎、本陣札幌神社などが含まれている。
 同五年、開拓使は今度は横浜の写真師スチルフリート本府を主とした開拓現況の撮影を依頼し、同人は九月から十月にかけて札幌を中心に撮影をおこなった。うち札幌関係は二八種類にのぼっているが、中でも札幌脇本陣の屋根の上から撮影したパノラマ写真はよく知られている。
 スチルフリートが来道した際、東京、函館、札幌から官員各一人ずつが「写真伝習」の名目で彼に同行したが、札幌からは武林盛一がこれに従った。武林は函館で開拓使官員となって田本の指導により写真術を習得し、三年には写真業を目指して退官したが、四年九月の函館大火で類焼し、札幌に来て開業し、五年六月に開拓使の御用掛として任用された。
 武林はこの後も札幌にあって写真業を続け、八年開拓使仮学校、女学校開校、ビール製造所開業など多くの後に残る写真を撮影したが、十七年に上京し、そのあとを弟子である三島常磐が引き継いだ。