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議会をもとめて

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 札幌区の有力者十数人が二十四年一月七日に参会し協議の結果、東京へ陳情委員を送ることになり、北海道毎日新聞社主阿部宇之八を代表に選んだ。同新聞はかねてより自治制、道議会、衆議院議員選出を主張し区民へ協賛を呼びかけていたが、大勢として国会陳情に賛同しながらも、その内容について種々の意見があるため、自治制要望をはずして一本化をはかり、これを全道的な主張に拡大しようと各方面に働きかけたが、札幌区有志の努力は実らなかった。小樽の人びとは自治の原則を第一に主張し、函館の人びとは独立議会を要求、室蘭、根室等の運動とも協調できぬまま、札幌の請願書は阿部により二月二十一日に衆議院へ、二十三日貴族院へ提出された。また阿部は東京で河野広中、尾崎行雄、犬養毅ら議員を招待し趣旨の理解を求め、四月三日帰札したが、請願運動はその後もねばり強く続いた。
 同新聞はどちらかというと改進党系で、函館の運動は自由党に頼る面が強く、区内でも同新聞にかかわる久松義典橋本義知や代言人(弁護士)グループと実業家たちの運動方針は必ずしも同一歩調にならず、いろいろな形で自治権の主張が展開されていった。たとえば久松は二十五年に『北海道新策』を発表し、北海道市制町村制私案を示し、札幌を市とし「東洋に於ける最善最美の真誠なる自治制度」実現の夢を描いてみせた。

写真-4 久松義典(『北海道民権史料集』より)

 区内ではたびたび政談演説会が開かれ自治の必要性を訴えたが、二十四年八月十日大黒座の板垣退助、河野広中等の演説会には二〇〇〇人もの区民が集まったという。ただその場で板垣は積極的に地方議会開設を主張しなかったことが注目される。仏教やキリスト教の宗教団体も公開演説会を開き、機関誌を発行して自治制施行を求め、北海道人懇親会、北海倶楽部、拓殖振興会等が生まれ、同様の主張をくりひろげたが、いずれも恒常的な活動とはならず、一時的な組織にとどまった。その中で二十年にできた北海雄弁会は、学友会と名をあらため『北海道』と題する機関誌を出し「札幌に於ける青年会の嚆矢にして、当時に於ける札幌の自治思想を代表したるもの」(札幌区史)であった。この『北海道』第一〇号には会長佐藤昌介(札幌農学校教授)の「国家と自治」と題した講演要旨が掲載されている。
(前略)我日本帝国をして憲法国たらしめんとせは飽まて自治の基礎を固ふせさるべからす。我北海道の人民か憲法に対して尽すべき所は何れにあるか、憲法は我々に国会に出るの権利を与へたは明瞭で、日本全国民に与て北海道民も其中に這入て居る、北海道民は只自治を得さるより其中に入らす若し府県人民の如く自治を行ふを得は、北海道民も亦た其代議士を国会に出し聖明なる陛下を補佐することか出来る、諸君は之を希望せさるか(喝采)。諸君は之を希望せさるか(希望ス々大喝采)。日本憲法国の国民として国家に忠愛なる臣民として未た眠を覚さす、町村なり道路なり病院なり教育なり警察なり皆他道人民の膏血より出る所を以て支弁し、北海道民自ら之を支弁し自ら治むることか出来ぬならば、十九世紀に生れた甲斐は何処にかある。(後略)

 こうした運動を背景に、三十年五月勅令をもって北海道区制を発布し、札幌を自治制に移行する予定が明らかになったが、なお時期尚早論も多くにわかに実現をみず、条文の改正を経て施行されたのは三十二年十月一日のことである。この経緯は次巻で取り扱われる。