札幌県時代から市民は札幌の都市の形成について、特に自分たちの生活に深く関わる問題に関心を示すようになった。開拓が一段落し市民生活が安定してくると、市民は自分たちの生活の環境に関心を持つようになったのである。そしてその環境を良い方向へ持っていこうとする意志が表現されるようになる。そのあらわれがすでに札幌県の時代にあった。薄野遊廓の土塁跡地は本来植樹するはずであったのが、放置されてゴミ捨て場化していた。それに対し周辺住民は土塁跡の払下げを要求し、市街地化しようとした。この問題は結局薄野遊廓の貸座敷側が植樹や定期清掃をすることで一応の決着がついた(札幌県治類典 道文八七七四)。また十六、七年の豊平川の堤防建設の際、市街総代が連署してわざわざお礼の文書を差し出すということがあった(豊平川堤防書類 道文七九二七)。さらに前述のように、豊平川堤防竣工と同時に、市民側は区役所を通して棚上げにされていた市中の大下水工事開始を要求した。このような市民側の態度は、自分たちの生活環境への関心のあらわれと考えられる。市民が家屋改良などに積極的に応じなかった開拓使時代とは、市民の意識に質的な差が生じていたことを示唆していると思われる。
この札幌県時代に公文書に表現された札幌市民の意識が、道庁時代には『北海道毎日新聞』の記事に表現されていると考え、都市景観上の問題、生活環境上の問題、市民意識の問題について考察してみる。