開拓使時代から札幌は北海道開拓の中心地として位置付けられていたが、札幌自体も開拓地であった。そのため開拓使の事業予算などの縮小や拡大により、札幌に落ちる金の多少により景気が左右した。その不景気の時代には、明治六、七年のように札幌での貧窮者は官の保護がないと生活できなかった。市街でも出奔人が多数出て経済活動もできなかった。しかしその様相も前述のような構想のようなものをふまえて二十年代には変化していった。
まず二十年代前半に札幌周辺の原野排水設備を設置し入植が進められたのに加え、石狩原野の植民地選定が行われ、石狩平野北部から上川盆地にかけて村が設置された。そのため開拓使時代の札幌周辺だけが開拓地であった時代とは様相を異にしてきた。札幌は奥地の開拓地へ向かう人びとの移動の中継地となった。これは全道への移住者に占める札幌への移住者の比率が、二十年代前半期の六~九パーセント台から後半期の二~三パーセント台への低下に示される(北海道庁統計綜覧)。
また正確な数字としては把握できないが、新聞記事などによると冬場には漁場からの労働者が札幌に流入し、それにともなって私娼が多くなるといわれている。また二十年代には豊平川の豊平橋近辺に「非人窟」(北海道毎日新聞)が形成されていた。これらのことから、庶民は札幌に居ればなんとか生活できるという意識を持つほど札幌の経済が進んでいたことを示していると考えられる。
また前述したように、二十年代には下水や屎尿処理など劣悪な生活環境への批判や、薄野遊廓、狸小路など都市景観に関して醜景を排除しようという動きなど、市民たちが自分の住んでいる札幌の生活環境を改善しようという意識を持っていると判断できる。このことも札幌が開拓地から質的に変化したことを示唆している。
以上のようなことから、二十年代後半に札幌は開拓地という移動を常とする生活空間から、経済活動に基づく定住を常とする生活空間に変化したといってよいであろう。もしそうならばそれは、札幌が開拓地から都市へ成長したということである。