前述のような構想をもとに、二十年代の札幌は市街地を拡大していった。十九年北七条西一~七丁目の新設にはじまって、二十三年北八条の新設など漸次鉄道以北へ市街区画が拡大された。また開拓使時代の工業局の跡地の市街化、豊平川の分流跡地の市街化、中島公園予定地の条丁目編入、さらに西方への発展により、札幌市街は漸次周辺域が拡大された。札幌への区制実施直前である三十一年には、市街は南北は北八条から南七条(現中島公園周辺を含む)、東西は東五丁目から西二〇丁目まで広がってきた(市史 第七巻二四〇頁、一〇〇五頁など参照)。この発展の結果、周辺の村落と市街を接するようになった。豊平川方面である南東方向は、豊平川を越えて豊平村と市街を接するようになる。西方は南二条から北五条が西二〇丁目付近まで広がり、南の山鼻村や西の円山村と市街を接するようになってきた。篠路通と呼ばれた札幌村方面である北東方向にも伸長し、市街を接するようになってきた。そのため二十年代後半には札幌区の区域を拡大することについて、札幌区、札幌支庁、新聞紙上などでどの地域を編入するかが話題になっていった。しかし区域の変更をしないまま区制は施行となる。