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郵便の発達

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 十九年三月「地方逓信官官制」が制定され、道内の電信郵便事業は函館逓信管理局の管理下に入り、札幌には二等の郵便局と電信分局がおかれた。その後二十一年三月火災のために電信局が焼失したこともあり、十月郵便電信の二局は合併されて札幌郵便電信局となった。次いで二十二年七月地方逓信官官制が廃止され、「郵便及電信局官制」が制定され、函館逓信管理局を廃止し、本道を函館・札幌・根室の各一等郵便電信局が分掌することになった。その後二十四年には札幌電信郵便局の大通西二丁目への新築工事が決定し、建築中の事務は局舎を南二条西五丁目の元警察署跡に移した。完成後一階を郵便部、二階を電信部として執務した。しかし二十五年四月一日二階に設けられた電信部から出火して焼失し、再び南三条東二丁目の堀内龍太郎持家での仮住まいとなった。そのため火事対策として、二十六年には耐火建築の石造で再度建築された。さらに二十六年十一月郵便及電信局官制が改正され、函館・根室の二局を二等局とし、札幌郵便電信局が全道の郵便電信とその建物を管理することになった(道毎日)。
 以上のように中央官制の変更や、火事などの事務所変更などの中で、内国小包郵便物の取扱量が二十六年五五一一が三十一年五万一九一九へと増加するように郵便業務はその扱い量が増加していった(道毎日 明治三十二年二月九日付)。また道庁時代になると駅逓所は道庁管轄、郵便は逓信省と分離されたが、実際の三等局などの業務は駅逓所に頼らねばならないことが多かった。
 この二十年代は、やはり札幌の発展にあわせて郵便受取所が増加したり、変更されたりした。たとえば二十四年四月新琴似へ郵便受取所を設置(取扱人桑島常治)、二十五年十月豊平村郵便取扱人を伊藤大助から内田小三郎へ変更、二十八年七月篠路村に為替貯金局の設置運動、三十年十二月月寒村郵便取扱所を吉田宅に変更、三十一年十一月軽川に郵便局の設置請願、五月月寒村郵便取扱所を笹森氏宅へ移転、十二月札幌区北八条郵便受取所取扱人を名取伝右衛門へ、などである(道毎日)。