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祭典区の性格

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 ところで、この祭典区とはどのような性格で、何のために設置されたのか考えてみたい。まず、前掲広告文では、「札幌神社区祭ノ儀」とあって、例祭とはなっていない。またこの二十六年六月、宮司から区長あてに「札幌神社祭典御届」が提出され、同月十四日夜宮祭、十五日本社より神輿渡御、十六日神輿市中渡御、十七日神輿還御、とあって「右日割之通札幌神社遙拝所ニ於テ祭曲執行候間、此段及御届候也」(願伺届留三)となっている。これらによれば札幌区の区祭は、札幌神社遙拝所において一部札幌神社例祭と重複しつつ行われるものであって、神社例祭とは一応区別されているとみられる。さらに、祭典区はのち祭典区交渉委員会、祭典区代表委員会と発展し、三十年代には委員会規約ができるが、その目的の項は「本会ハ官幣大社札幌神社御神幸ニ関スル諸般ノ設備其他之レニ関連スル総テノ要務ヲ執行スルヲ以テ目的トス」(大正五年以降例祭並ニ神輿渡御書綴 北海道神宮)となっている。御神幸とはつまり神輿渡御であり、これは六月十五日に官祭として執行される例祭終了後に私祭として行われるものであるから、文面上からみれば、祭典区は例祭とは関わらない組織ということになる。このほか、『北海道毎日新聞』にも「来る十四日より十七日迄例年の通り札幌神社遙拝所に於て祭典執行に付」(二十八年六月六日付)のような記事も散見される。
 これらをふまえて考えると、まず前編に記したように十年に宮司から札幌神社市中移転願が提出され、却下されると十一年に遙拝所市中建設願が提出され、土地・建物とも区民の寄付によって完成し、同年から区民の負担による神輿渡御が始まった。こうみてくると、神社の市中移転にも区民の意志が働いていた可能性が大きいとみなければならない。当時札幌区には公認神社はなく、十三年に公認された三吉神社もその際祭神の追加が行われたものの、一般には秋田県人の神社との認識が強かったと思われる。となると、社格も高く多くの区民の同意を得られる札幌神社を区内に移して区の鎮守神とすることを図り、それが却下されると遙拝所を建て、霊代をここに移して祭を行うこととした。すなわち、区民の札幌祭とは、札幌神社の霊代を区内に移して行う産土祭であり、祭典区はそのための組織であったといえよう。換言するならば、この祭典は「北海道総鎮守」とは直接関わらない道内一地方のそれであり、むしろそれが当時としては自然な信仰心の発露であったといえよう。