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公認神社の急増と住民

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 こうした公認神社創出方針の結果であろう、三十年から公認神社が急増した。すなわち三十年には琴似神社苗穂神社白石神社手稲神社大谷地神社信濃神社江南神社の七社、三十一年には諏訪神社稲荷神社(琴似村のち山鼻村)の二社、三十二年には西野神社、稲荷神社(のち発寒神社)の二社の計一一社をかぞえる。この中には信濃神社のように、勧請後あまり年月を経ずに公認されたものもあるが、多くは相当長期間の無願の時期があった。たとえば幕末に創建された発寒村の稲荷社、篠路村の八幡社(のち篠路神社)の公認は、それぞれ三十二年、三十四年である。このほか十年代に小祠が建てられたものは多い。
 ここで、公認問題を住民の側から若干考えてみたい。開拓民にとって、神社は信仰の対象であると共に、集落の団結その他生活上必要欠くべからざるものであった。したがって集落民が十数戸の段階ですでに小祠を建立した場合も多い。しかしおそらく国家神道の理念が住民に浸透していないこの時期にあっては、住民は小祠を建立して祭などの諸行事を行うことで自足し、あえて公認を求める必要を認めなかったと考えられる。また公認を得るとすれば、基本財産の造成、あるいは三吉神社のように本来秋田県人の崇敬した藤原三吉命が「配祀」とされ、主祭神は国家神道に則して選定されるという祭神の問題があった。さらに西野神社は、三つの出身地の異なる集落の小祠を合して創建されたが、大正に入ってそのうちの一集落が同社遙拝所を建設する(大庭幸生 札幌周辺個別移住村落の形成過程)という経過が示すように、住民の信仰と反した処理がなされる場合もあり、神社の公認は必ずしも一般村民の積極的同意を得られる性格のものではなかったといえよう。それはまた、住民が古来からの神仏混淆的な信仰を多く持ち続けていたということにもなるが、これについては四節で記述する。
 このほか、この時期には三吉神社が郷社に昇格した。