ここでは住民の宗教生活のうち、この時期に特徴的なもののうち若干を例示する。記述の都合上、これまでの分と重複する場合もある。
周知のように明治五年(一八七二)十一月九日の、太陰暦を廃して太陽暦を採用するとの詔書により、同年十二月三日が六年一月一日となり、以後太陽暦(新暦)が使用された。しかし長い間太陰暦(旧暦)で生活してきた人びとにとって、生活習慣は容易に変更できないものが少なくはなかった。信仰に関するものもその一つであった。
まず大きな行事では盂蘭盆会がある。実態については後述するが、少なくともこの巻の時期にはすべて旧暦で行われている。たとえば二十一年では「来る(八月)廿日より廿四日までは干蘭盆会に当るを以て」(北海道毎日新聞 同年八月十六日付)、二十二年には「昨日よりは旧暦の盆に当りし故にや」(同 八月十日付)、二十四年は「一昨廿日は陰暦の七月十六日に相当せるを以て、小樽札幌市中は干蘭盆とて地獄の釜の蓋明けと古来伝はりし風習にて」(同 八月二十二日付)と、年毎に日が異なって行われており、これがやがて月おくれの盆として定着していったものと思われる。
また、二十七年一月四日は旧暦の十一月二十八日にあたることから、東西本願寺別院では見真大師(親鸞上人)の六二三回忌を執行している。灌仏会などは、三十九年現在も中央寺、新善光寺、北海寺、経王寺、龍松寺で旧暦によって行われている(北海タイムス 四月三十日付)。しかしここには東西本願寺別院等の名がないことから、新旧暦混在の時期であったかも知れない。このほか、彼岸については三十二年三月二十一日が中日で、寺院のにぎわっている様子が報じられており、おそらく日清戦争後から、これら行事の新暦への切替が次第に滲透していったものとみられる。