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変わる食生活

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 明治二十年代に入って札幌の街や村で自給される食料品も次第に増えていった。しかし、相変わらず主食を米麦に頼っていたため、特に米価は輸送に関連してはね上がることがしばしばであった。近村の農家の主食は米三に対し麦七の割合であったが、麦はだいたい自給できた。
 札幌の街では、酪農業者が乳製品を製造し販売するようになったため、バター、コンデンスミルク、牛乳等も口にできるようになった。ことに牛乳は、二十一年に苗穂村愛生軒が一合一銭五厘で売り出した。二十六年には桑園内(北一条西一五丁目)の宇都宮仙太郎も牛乳販売を開始した。このため牛乳販売が活発化し、札幌牛乳搾取業組合では乱売を防止して一合二銭と価格を協定している。牛乳販売も年々搾乳量が増加したところをみると飲用が普及したらしい。
 乳製品ばかりでなく、牛馬の肉も鹿・豚肉と同様に食用にされている。二十年代の札幌では函館と比較して馬肉が多く消費されていた。近村の農家で牛馬を飼育するようになったのも二十年代である。
 かつて官によって奨励された食物改良は、森田道庁農商課技師が西洋料理法やパン製法をひろめたところ、二十六年一月には道庁、屯田等の高等官以下四十余人がフランスパンを製したり、食物を改めたという。かつて西洋料理屋といえば豊平館ただ一軒であったが、二十一年滋養軒(南一条西三丁目)が開業し、牛肉や牛肉弁当の販売をはじめ牛鍋やスープ(ソップ)を食させ、西洋料理が身近になった。
 このほかこのころの新聞広告では、ラムネ、ブドウ飴、天狗豆などが盛んに宣伝されるようになっている。
 酒は、日清戦争中戦勝祝賀会等種々の会合の催しにより需要が伸びた。地酒の醸造も年々増加し、二十九年には一万三〇〇〇石の仕込みがあり、うち一万石は地方に捌かれた。札幌の街では、ビールやブドウ酒の醸造も行われたが、やはり日本酒が好まれた。おもに上方酒と地酒と両方が用いられたが、地酒はおもに出面取り(日雇)や近村農家で飲用されたので、季節による収入の多少に左右されることが多く、五月から十二月にかけて売れゆきはピークに達したが、二、三、四月は積雪中で仕事もなくしたがって売れゆきは悪かった。しかも、元来酒は二合五勺より少量は商っていなかったが、二十九年頃は「近来府県の移民増加とともに、商高の口も小となり、一銭の酒、或は甚しきは二銭の酒粕を持来れ」(札幌沿革史)というように売り方も府県並になってきた。一方、開拓使のころあまり飲用されなかった茶は、農家の需要が増すと市中の府県来住者も従来の習慣として飲用し、在来の住人までも飲用するようになった。買い方も五銭、一〇銭と少量買いであった。また、味噌・醤油は従来から地元生産が多かったが、やはり味噌は津軽・佐渡、醤油は野田を上等とした。味噌に比べ醤油の消費量が多かったのは、札幌創業時に男女とも就労し、料理に費やす時間を惜しんで味噌の代わりに醤油を多く使ったのが習慣になったのだといわれている(同前)。