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紀元節・天長節

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 明治以後の祝祭日に皇室の祭祀が加えられたことは前述したとおりである。官庁等を中心に祝賀行事が行われてきたが、二十年以降とみに祝賀行事として国家によって盛りあげられたのが、明治政府当初の国祭日である紀元節と天長節であった。
 紀元節は神武天皇即位日として祝日に加えられたものの、一般には馴染まず祝意の盛りあがりは弱かった。しかし、二十二年二月十一日に大日本帝国憲法を発布したのを契機に、特に学校教育を通じて一般の関心を強く誘うにいたった。札幌でもそれまで北海道庁で行われていた参賀すべき身分のみの紀元節祝賀行事も、次第に学校、職場といった場でも持たれるにいたった。
 一方天長節は、大日本帝国憲法発布の二十二年の場合、立太子式と重なったこともあって、公的な官主導の有志祝賀会とは別に一般市民層をも捉えていった。札幌農学校、敬業館(私塾)、北海道学友会札幌仏教青年会北海道製麻会社といった単位でも祝賀会が持たれた。公的な祝賀会は、豊平館を会場に四〇〇余人が参列し、祝詞朗読、「皇帝陛下万歳」「皇太子殿下万歳」、唱歌、立食パーティーといった順序で行われた。
 それに比べ民主導の北海道学友会では、町会所を会場に祝賀大演説会を行った。それは、天皇皇后等の扁額の上に国旗を交差させ、「帝国万歳」、「国富兵強」、「天長地久」の扁額を掲げ、一種独特の熱気に包まれていた。演題も、「今日は如何なる日ぞ」、「今日を祝す」、「帝国万歳」、「天長を祝す」といったのが並び、佐藤昌介会長の「奉恭賀天長節」の演説にいたっては、「帝国万歳、憲法万歳、天皇万歳」で結ばれ、聴衆百四、五十人の拍手喝采を受けた。しかし、これは同会のその後の方向を示唆する内容でもあった。
 一方の北海道製麻会社では、当日社員工男工女等五〇〇人を会場に集め、万歳三唱ののち酒肴を分かち、餠を配って終了した。以後の儀式には、「日の丸」、「君が代」、「聖影」、「万歳三唱」が欠かせないものとなった。