札幌区を取り囲むように設置された屯田兵村の兵員等は、常日頃から有事に備えて実地演習を行ってきた。二十四年頃からは、新聞を通して演習の実況が一般の人びとに詳細に伝えられたばかりでなく、一般市民の演習見学のために臨時列車が仕立てられたり、演習のために札幌区内に招集された兵員の民家への分宿の模様や一般市民の協力の模様が伝えられるようになった。
二十七年八月一日、日清戦争が勃発すると実地演習は実戦に備える訓練に変わった。二十八年二月二十三日から二週間にわたる琴似・発寒・山鼻・新琴似・篠路の五兵村を含む第一大隊一~五中隊の実地演習がそれである。三月六日付の新聞は、第一大隊第一中隊本部が江別停車場前野幌原野屯田用地内で実弾射撃を行うと報じた。それは、三月四日付で屯田兵員をもって臨時第七師団編成の命が下ったこととも関連する。臨時第七師団編成の第一大隊には、前述の山鼻・琴似・新琴似・篠路等の兵員が含まれていた(歩兵第二十五聯隊史)。
三月十七日、陸軍将校の予餞会が開かれたのを皮切りに、札幌区内では出征兵士の予餞会が「会津人」、「長野県人」、「鹿児島県人」、「農学校」、「札幌郵便電信局」、「北海禁酒会」、「製麻会社」といった単位で行われた。屯田将校の出発は四月四日で、新聞によれば、「札幌停車場前は正(まさ)しく人の黒山の築くものゝ如く嘗てなきの光景を呈し前後四回の小樽行列車は万歳声裡に征行を壮んせさるなく特に午前九時三十五分発のものは狂する如きの人気と湧くが如きの喝采を以て見送られたり」と、停車場はじまって以来の賑やかさであったとある。出征兵士の見送りは四月七日にも行われ、三本の小樽行き列車は、「何れも屈強の好丈夫を満載し」、山のごとく集まった有志に見送られた。こうして出征した屯田兵員による臨時第七師団は、三月三十日付で第一軍に編入となり、東京で命令を待つことになった。しかし待命中の屯田兵員たちは五月十五日に復員下令となり、同月二十八日師団司令部は小樽に帰着した。やがて六月二十二日付で解散している(北海道及樺太兵事沿革)。