ついで、札幌仏教青年会が二十三年の第三回演説会で、「廃娼」問題を初めてテーマにとりあげた。仏教青年会の言わんとする骨子は、真の宗教家であるならば貸座敷業や娼妓のような「不正の職業」を黙視せず、正業に就かせるべき点にあった。「廃娼」問題は、同年の第四回演説会でもテーマにされた。
仏教青年会が「廃娼」問題をテーマに据えたちょうど同じ頃、今度は北海禁酒会が同じテーマをとりあげた。二十三年三月六日の第二八回月次常集会で、会員の馬場種太郎が「廃娼論」を演説したのがそれである。演説会の広告では会員のみならず広く一般の人びとにも呼びかけたので、当日は会員九〇人のほか一般傍聴者二〇〇余人が参集するほど盛会であった。
北海禁酒会は、元来飲酒の弊害を除去するために設立された団体であるが、他の団体に刺激される形で「廃娼」問題もテーマに加えていった。翌二十四年六月十八日の第四二回月次会では、竹内種太郎が「北海大市街札幌区内に於て白昼公然横行する売淫婦及飲食店の撤去」を主唱するとともに、この日の談話会では、禁酒会の活動のための一三の部門が設けられたなかに、禁酒に関する担当係と並んで「密売淫調査掛」(委員松田理三郎)、「婦人掛」(委員西川かめ)がおかれた。この禁酒会活動のおもな担い手が札幌基督教会のメンバーであったことは前述したとおりである。
写真-7 「廃娼論」の演題のある北海禁酒会の広告(北海道毎日新聞 明治23年3月2日付)
「廃娼」問題は、このように北海道学友会、札幌仏教青年会、北海禁酒会の会員たちといった特定の結社団体のテーマにまず据えられ、「廃娼」が可決されていった。これらの特定の結社団体とは異なるが、二十五年に入ると政談演説会の演題にものぼるに至っている。政談演説会は、代言人(弁護士)、新聞記者といった人びとをおもな担い手として二十二年頃から札幌で開催されはじめ、二十四年頃からは頻繁に開催されるようになった(第二節参照)。二十五年二月七日の「北海道名士政談大演説会」広告では、七本の演題のほかに「北海道議会開設の可否」と並んで「廃娼の可否」が討論題に入っていた。たとえ討論題であれ、政談演説会のテーマに「廃娼」問題が登場したのは最初である。しかし、この日の模様を報じた新聞によれば、「弁士中止」となる演説があったため、討論題を討論するには至らなかったようである。やがてその四日後の二月十一日、再び同じ主催者による「憲法発布第三年期政談大演説討論会」が札幌で開催され、演題七本のほかに、「婦人をして政談演説を聴かしむるの可否」、「北海道議会開設の可否」、「廃娼の可否」の三本の討論題が予定され、三本中二本の討論題が女性に関わるテーマであった。しかしこの日の演説会も前回同様時間切れで、「婦人をして」の方は甲論乙駁の結果可決したにもかかわらず、「廃娼」の方は討論に至っていない。このように不特定多数の聴衆を期待する政談演説会のテーマに「廃娼」問題や女性の問題が云々される段階に至っていたことだけは確かである。しかし、この「廃娼」問題はこれ以上深められないまま、日清戦争後に起こってくる遊廓移転論へと転嫁されてしまう。
写真-8 政談演説会の演題及討論題(北海道毎日新聞 明治25年2月11日付)