ビューア該当ページ

道毎日の発展

1021 ~ 1022 / 1047ページ
 二十一年春、山田吉兵衛は活版印刷・新聞事業を全面的に阿部にゆずり、阿部は十月道庁に出願して印刷所の払下げを受け、同新聞は名実共に阿部の所有となった。同年九月、同新聞は「社告」としてこれまで「紙面狭隘」のため記すべき事を尽すことができなかったことなどから、十月二日を期して「第一 紙面の体裁を変更する事 第二 字数を増加する事 第三 探訪を確実に迅速にする事 第四 記事を選択正確にする事 第五 内外の要件を網羅して報道する事 第六 特別寄書の一欄を設け諸名家の卓論を掲載する事 第七 記者を増員する事」(九月九日付)の改良をすることとし、そのうち「第七」については、「柳内義之進氏を聘し」たとある。柳内は札幌農学校出身で、後述する『北海新聞』発行停止処分の原因となった論説の筆者である。さらに久松義典(狷堂)、上田重良持田謹也などが加わり、二十六年には「記者六名探訪員三名」(久松義典 開拓指鍼北海道通覧)の体制となったとされている。また「第六」の特別寄書の執筆者として伊藤一隆、新渡戸稲造、大島正健永田方正佐藤昌介など一九人を依頼した(道毎日 二十四年八月十一日付)。
 新聞刊行以外の事業としては、二十四年から二十五年にかけて行われた移住勧誘事業が挙げられる。すなわち資本と労働との注入を勧誘奨励するため、遊説員を派遣し、同年十月から翌二十五年五月まで、東京から高知に至る一六府県を巡回し、「演説幻燈の公会を催せるは三十七回」(久松義典 前掲書)に及んだ。この費用は有志者の寄付に求め、一千余円を集めたという。