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自治論の特徴

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 明治二十年代後半の札幌における自治権要求運動を、函館、小樽等道内他地域の動きと対比し、その特徴として次の諸点をあげることができる。
 まず、道庁派拓殖調査会を、特別制派が開拓調査会議を市町村制論議の前提としたように、北海道の拓殖政策の確立を求める動きとの強い関わりである。「北海道五十万の人民は、尚代議政化の外に立ちて、未だ大に立憲政体の恩波に浴せず。拓地の政務廃弛して殖民の事業阻滞し、幾んと国民の度外に置かれたるが如し」という認識にもとづき、「港湾の修築、漁業の奨励、土地の整理、移民の保護、成功愈々大なれは戸口愈々繁殖す。戸口繁殖して町村増加し、町村増加して地方経済の独立を促かし、町村自治の必要を感するは、是れ社会進化に於る自然の数なり」というのが特別制派の論理であった(道毎日 明26・12・2附録)。小樽の運動とはこの観点であゆみ寄りがあったものの、函館との落差は大きかった。
 拓殖事業に国家財政の大規模な投資を求めれば、北海道庁の役割重視、ないしは権限拡張論が浮上せざるをえない。拓殖推進の中枢機能を札幌に確立し、札幌を核とした事業の全道的展開を企図すれば、道庁権限を市町村に移譲する運動に制約が伴うことになる。「随分立派な有志家と称せらるゝ人々にても、道庁を見ること恰も旧大名下に支配されたる人民が、領主の御殿を望む如き感をなし、尊厳にして近づく可らさる様に思へる者なきにあらず」「唯夫れ自治自助の精神なし。故に彼等は拓地殖民の事業を以て、一に北海道庁のみの為すへきものとし、長官職権内の本務とのみ心得居れり」(道毎日 明25・2・28)という風潮のもとで、函館の自治運動とは大幅な開きを生ぜざるをえなかった。
 国政と市町村の間に位置する北海道議会開設要求も当然差異を生む。特別制派は市町村自治と道議会開設の並行実現をめざし、帝国議会における自由・改進両党は後者の先行を、政府は前者の先行を主張した。このように市町村自治論議が道庁と道議会のあり方にからみつつ展開され、札幌の運動が道庁の役割を重視したところに、もう一つの特徴をみることができよう。
 さらに札幌の運動の進め方には、全道一致を志向し、意見の集約と意志の表明に中心的役割を担おうとする指導性のあったことが注目される。函館、小樽、室蘭等の運動と連携をとり、意見の違いを調整して北海道一本の請願をめざし、無関心層に積極的に働きかけ、自治権の大切さを説く啓蒙活動にも努力した。特別制派の中心人物の一人である久松義典は次のように述べている。「予は百事を自弁し、同行者と共に本年七月全道巡回を企て、短褐范鞋、各地の山川を跋渉して広く同志の士を訪問し、千嶋に入り網走に抵り、宗谷岬に上り利尻嶋を繞り、東西海岸の各市邑を遊歴せしに、函館、根室、霧多布、厚岸、網走、標茶、釧路、大津、広尾、幌泉、浦河、静内、室蘭、亀田、福山、江差、寿都、歌棄、岩内、古宇、余市、増毛、留萌、利尻、宗谷、石狩等各地の有志者は、請願草案の賛成に於て稍厚薄の差ありと雖も、過半は已に修正意見を立てゝ調印を了したり」と(道毎日 明26・12・2附録)。
 この全道巡回に五カ月を要したというが、その間、新聞紙上に時評を掲げ、政談演説会を開き、自治権要求の必要性を説き、札幌を中心とする意見の集約に多くの時間と資金を費やしたが、この努力は結実するに至らなかった。とはいえ、札幌の運動が全道一致をめざし、具体的な行動を積極的に進めたことは第三の特徴といってよい。
 札幌の運動を進めた人たちは多岐にわたった。商工、農牧業を営む実業家、弁護士、新聞出版関係者、元官吏や教員など幅広い人たちが参加したが、職種によりグループをつくることはなく、むしろその内部に対立がつきまとった。運動をひとつにまとめる団体は生まれず、恒常的な運動主体を形成せぬまま、臨機の集会がその都度くり返されていったところに、札幌の運動の弱さがあった。これを第四の特徴とすることができる。
 運動の基底層たるべき実業家は函館、小樽のような経済力をいまだ蓄えておらず、道庁の膝元にあって国家財政への依存体質が強く、運動の指導力を発揮するに至らなかった。その役を果たしたのは新聞人と弁護士であったが、いずれも特別制派道庁派に分かれ、特に北海道毎日新聞北海民燈北門新報・新北門の対立が激しく、「今後の調停策は懸りて実業家諸君の肩上に在り」との呼びかけも実を結ぶことはなかった。