札幌では一日も早い自治体の誕生を期待し「発表するの日は遠きにあらざるべし」(道毎日 明28・8・14)と願ったが、秋になっても新制度発表のきざしはなかった。「閣議は略一定し、既に法制局に廻りたる由なれば、遠らず勅令を以て発布し、次年度即ち来る二十九年四月より実施するならんとの説」(道毎日 明28・10・2)を信じたが実現せず、勅令公布は間近いが施行は遅れそうだとの噂が出て、「第九帝国議会開会以前に発布せらるゝ目論見なりし趣なれは、遠からす其発表を観るに至るならん」(道毎日 明28・12・5)と伝えられたが、議会が閉会してなお実現しなかった。
この第九回帝国議会の貴族院で、近衛篤麿議員が北海道鉄道布設方針に関する質問書とともに北海道鉄道敷設法案を提出し、その理由として道庁の弱体と「北海道ニハ自治制ガ是マデ無カッタ。ソレハ一部分ニハ有ッタカモ知レマセヌガ、全体北海道ニハ自治制ガ無イ」ことをあげている。これに対し政府委員の内務次官松岡康毅は次のように答弁した。
彼地(北海道)ノコトハ別段デゴザイマシテ、勅令ヲ以テ追追発達ヲシタ所ノ町村抔ハソレ相当ノ治メ方ヲセズバナルマイト云フコトデ、其調ベハ出来マシテ、唯今政府ニ於テモ調査中デゴザイマシテ、如何ナル制度ヲ愈々行フト云フコトハ此処デ今申述ベル訳ニハ参リマセヌケレドモ、発達ヲシタ町村ト、今移住ヲシタバカリノ処ト、又追々入レテ行クト云フヤウナ場所トニ応ジマシテハ、一様ノ制度ノ下ニ立テナイ。依ッテ其区別ニ応ジテ制度ヲ施シテ行カウト申スコトハ調査中デ、而カモ余程其調査ハ運ンデ居リマス。
(第九回帝国議会貴族院議事速記録 官報号外 明29・2・14)
議会閉会直後、中央官制の改正により北海道の政務と台湾の植民地統治を一括して主管する拓殖務省ができ、二十九年四月一日から北海道庁は内務省を離れ、その管轄下に入った。北海道の自治制問題も拓殖務省に移るが、内務省でほぼ出来上っていたという案文がどのようなものであったのか明らかでない。ただ札幌の人たちが新聞報道で知り得た内容は次のようなもので、この頃になると札幌は函館とともに市(区)制が施行されるだろうと多くの人たちは確信するようになっていた。
曩に内務省に於て起草したる北海道地方制度案は、過日同省より拓殖務省に引継済となりたるが、之に就て当局者の語る所に拠れば、元来函館、小樽、札幌の如く戸口稠密なる市街に於ては完全なる自治制を施行し得るの見込あるも、辺鄙僻遠の地方に至りては一村の地主にして戸長たる者も少なからざる有様にて、事情頗る内地と異なるものあるを以て、今遽に内地同様の制度を実施し能はざるも、従来の郡区町村を改めて新に郡市町村を組織し、成るべく人民に活動の余地を与ふる方針に拠り、更に詮議の上勅令を以て発布する筈なりと云ふ。
(東京日日新聞 明29・4・29)
このように勅令公布が大幅に遅れたのは、日清戦争後の処理が優先され北海道施政への関心が台湾統治とすり替えられたことのほか、内閣交代、官制改正、皇太后葬儀等の繁忙によるが、新制度がかかえる特殊性にも要因があったと言わざるを得ない。たとえば、市制町村制との調整はもとより沖縄の地方制度との関わり、施行地と公民資格の調査、道庁と市町村の分権、屯田兵村の処置、道庁機構改革問題とともに、自治尚早論が一部に根強かったことも無視できない。
北海道に施行する特別自治制度を北海道区制、北海道一級町村制、北海道二級町村制と名づけ、勅令案として拓殖務省が内閣に公布の件を請議したのは二十九年(一八九六)十二月一日であった。第一〇回帝国議会対策を考慮してのことと思われる。提案理由として、現行の区戸長・総代人制度は住民の「意志ヲ代表セル議事機関タル性質ニ於テ欠ク所アル」から、「発達ノ程度ニ応シテ其ノ組織権限ヲ定メ、公費負担ノ区域ヲ立テ、以テ其ノ共同ノ事務ヲ処理セシメ、且提撕督励シテ益々其ノ発達ヲ計ル」ことをかかげ、国家財源依存の風潮を改め「負担ニ堪フルモノハ努メテ之ヲ負担セシメ、漸次公費官給ノ風ヲ去テ自営ノ途ニ就カシメン」とした(市史第七巻 九九九頁に全文所収)。
北海道区制案は七章一〇四条からなり、区を法人としたが、同時に道庁機構の末端に位置づけた。そこに住居を持つ者を住民とし、二五歳以上の男で三年以上区に住み、区税を納め、且つ地租年額五〇銭又は国税二円五〇銭以上を納める者が公民として区会議員の選挙権を有することにした。区会は公民によって選挙された議員(公民のうち道庁区役所職員、警察官、教員、神官僧侶は被選挙権がない)をもって構成するが、区長が議事を統括し、参事会を設置しないので、執行機関が強い権限を持つことになる。区長の資格については条文に規定がなく、これは道庁が任免する有給官吏であることを意味したから、区に対する道庁の指揮監督権はきわめて強く、自治制と呼ぶにはほど遠い内容であった。
閣議に提出された拓殖務省案はすぐに決まらなかった。その勅令公布の件が決定をみたのは五カ月後の三十年(一八九七)五月十日で、五月二十五日裁可を得て、「北海道区制(勅令一五八号)」(以下三十年区制という)「北海道一級町村制(勅令一五九号)」「北海道二級町村制(勅令一六〇号)」として成立し、同日公布となった。この間に拓殖務省案は多少の修正を受け、区制の公民資格に三町歩以上の耕宅地所有者が加えられ(第五条)、現役予備役の屯田兵村と公有地への適用除外が盛り込まれるなど(第一〇二、一〇三条)、七章一〇五条となった(公文類聚 明治三十年 第二一編 国公文、閣議決裁文書は市史第七巻口絵に所収)。大幅な制約のついた自治制ではあるが、ともかく全国的な地方制度に札幌も基本的には準拠することが明示された意義は小さくない。これの施行は区制が同年十月一日、一級町村制が翌年一月一日からとされた(拓殖務省令第七号)。