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憲政党札幌支部

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 帝国議会開設以来、自由党と改進党はともに民権の伸張、藩閥の打破を標榜しながら国論をたたかわせたが、旧来の感情を捨て大同につき提携して民党と称し、政府に対抗するようになった。政府もいたずらに民党を政敵とするのではなく、政策遂行には協力が必要との判断から、政府と民党の接近の端が開ける。改進党は二、三の小団体と合併して進歩党と改称し、衆議院議員数で自由党と互角の勢力を得ることになると、政府は自由、進歩いずれか一党を与党として組み込む政策展開をはかった。明治三十一年六月十日の第一二回帝国議会解散を機に、自由、進歩の二大政党は合同し、藩閥政府に対抗するため憲政党を組織した。六月二十二日結党大会を開き、大隈重信(旧進歩党)を首相に、板垣退助(旧自由党)を内務大臣とする、いわゆる隈板内閣が六月三十日に成立し、ここに日本初の政党内閣が誕生したのである。
 札幌では、二十四年板垣退助の来札以降自由党寄りの立場をとり、中央と地方の政党的連携を強めようとしていた人たちの間に、この国政の変革を受けとめ憲政党と直接結びつきを持たせようという意見が生じた。七月十六日赤星栄三郎花村三千之助が東京に出向き、憲政党本部と交渉した結果、その札幌支部を設置することで合意を見たのである。札幌支部は七月二十六日に事務所を開設し、発会式は八月二十五日を予定したが、本部からの特派員の到着が遅れ、翌二十六日現中央区大通西三丁目の事務所で行われた。党員(支部員)はこの時四五七人を数えたが、その内札幌住民は山崎孝太郎富所広吉前野長発等三六六人であった。札幌支部とはいえ管轄を石狩後志天塩北見胆振としたから、支部員は各地に分散し、八割が札幌にいたことになる。こうして北海道に集会及び政社法にもとづく最初の政党組織ができたのである。
 札幌支部では本部大会に代議員を出席させ、本部からも特派員を送りこみ、発会式式辞に「憲政党の主義綱領を賛し加盟した」ことを宣告しているが、本部と支部の統制はさほど強いものではなく、むしろ支部の独自性が色濃くうかがえる。札幌支部の主張は、一、北海道庁の官制改正、二、自治制施行、三、代議士選出、四、北海道国有土地処分法改正、五、林政刷新、六、移住民の教育及び衛生向上、七、漁業権確立及び水産奨励、八、区町村の基本財産設備、九、北海道起業公債発行、一〇、金融機関設置等で、道内各地に遊説員を送り、札幌では政談演説会を開いた。
 政権交代に伴う北海道庁長官の更迭がこの時あって、憲政党員(旧自由党系)の杉田定一が就任したから、札幌支部はこの新人事を大いに歓迎し、杉田長官の着任にあたり支部代表を函館、室蘭に送って出迎え、さらに岩見沢札幌両駅にも多数の出迎人を配置した。こうした友好関係は長続きせず、ほどなく一部支部員と長官の対立が報ぜられ、中には本部に杉田長官の除名を交渉したり、長官排斥運動を説く者さえあらわれ、杉田はわずか三カ月余で退任する結果になる。その原因は道庁内での長官と事務官の対立が支部に及び、長官がややもすると北海道同志俱楽部と関係を深めようとし、事務官が札幌支部に肩入れしたためと伝えられる。支部内もまとまりがなく、越前派と信濃派に分かれて軋轢が絶えなかったので、一定の方針をたてて事にあたることができなかった。
 札幌支部と北海道同志俱楽部の関係も微妙で、両者は設立時を同じくしたため、対抗的に発足したかに見えた。「名は同志俱楽部或は憲政党支部と云ふも、其実態に於ては何れも拓殖の改善進歩を図る者と云ふを得べし。唯其異なる所は憲政党支部なる者は同党員を長官に戴くを以て内部に於て行動するを得るも、同志俱楽部は然らす。一つの有志として外より運動するのみなり。換言せば、其運動の内外を異にする有のみ。提携協力以て北海道の進歩を図るに於て、何の支障する処あらんや」(道毎日 明31・8・19)とみられるようになった。同一人が両団体に加入していることも多く、主張もさほど異ならなかったが、同志俱楽部に札幌外の大地主が多く、それと対照的に札幌支部には大資力家が少なかったと言えよう。