大字上手稲村はもと仙台藩の片倉家臣団により開かれたが、明治二十年以降は西野地区を中心とした発寒川上流域の開拓が進んでいく。二十九年に右又用水路も開削されてからは造田が本格化していった。三十一年に広島用水路が開削された後、左又の琴似学田、西野の円山学田でも用水路がつくられ、米どころとなっていった。ここで収穫された米は米質・収量ともに良好な西野米と呼ばれて世評が高く、西野は札幌周辺では有数の米産地となっていった。「西野水田地ト云ハヽ価格モ不廉ニシテ望者先ヲ競フニ至レリ」(手稲村史原稿)といわれ、水田農家が多い西野地区は富裕であり、納税成績も優秀であったという。また養蚕も開拓使の時期以来さかんであり、丘陵地では果樹栽培も行われていた。
このように西野地区を中心に発展をしていた上手稲村であったが、明治四十三年に地域を二分する分村問題が発生していた。九月に上手稲を手稲村から分割して琴似村へ併合することが、一三一人の連署でもって石狩支庁へ請願された。その理由は、上手稲が琴似村へ近接しており、「医者の診断、学校、納税其他に至便なり」というものであった。ところがそれにあわせて、合併反対の請願も一四六人から出されており(北タイ 明43・9・24)、ここに地域を二分した大きな問題となっていたのである。
西野には琴似村の学田もあり、この年(四十三年)の三月には、琴似手稲果樹組合も創設されており、上手稲と琴似村との関係が緊密であったことも併合運動の背景となっていた。この問題は石狩支庁が認めなかったのでそのまま立ち消えになったものの、その後もくすぶり続けた問題であったし、当時の村内事情をよく伝える問題であったともいえる。
これは他の分村運動と同じく村役場の位置をめぐっての問題が発端であるが、この背景には二級町村制で性格の異なる村が併合したこともあり、村内全体の融和がいまだ十分に浸透していなかったこともあげられる。特に手稲村は上手稲、下手稲、山口の三村の戸長役場の時期から、札幌支庁管内では著名な〝難治村〟であり戸長の交代が頻繁であった。上手稲では片倉家旧臣たちにより「村内軋轢絶へず」「村治の何彼に嘴を容れ纏まるべき事業も為に破れる」などと新聞で指弾されているが(北タイ 明44・2・3)、草分けの移民たちと新移住者たちとの融和も欠いていた状況であった。