日露戦争後の疲弊した経済、噴出する社会問題、荒廃した人心に対処するために、明治四十一年十月十三日に「戊申詔書」が出され、これ以降、詔書の趣旨を徹底する施策、運動が展開されるようになる。札幌神社では四十二年五月二十三日に捧読祭と講演会が行われ、一般への普及の端緒となってくる。道庁でも四十三年五月一日に「勤倹貯蓄の告諭」(北海道庁告諭第三号)を出すなどして指導強化につとめていった。これにあわせ民間からも青年会を中心に活動が繰り広げられ、「戊申詔書」実践の団体・組織も創設されていくことになった。
『小樽新聞』(明43・5・21)に掲載された「戊申詔書と本道の施設」によると、札幌支庁では札幌村の勤倹会、藻岩村の青年以心会、手稲村の造資組合、豊平町の青年睦友会、篠路村の実践会が、「節酒励行、質素節約、産業奨励、相互救済等を目的とするものにして創立後日尚浅きに拘はらず着々其歩を進めつゝあり」とされ、上記の会が賞揚されている。
手稲村では、戊申詔書を村内各戸に配布し「普ク御叡慮ヲ遵奉実行」を申し合わせるとともに、四十三年九月に手稲村和衷協同規約がつくられた。同会は「戊申詔書ノ聖旨ヲ奉体シ部落心ヲ一ニシ勤倹信義ノ美風ヲ涵養シ質朴醇厚ノ良習ヲ養成スル」ことを目的とし、以下の細目を「恪守」することとされている。①法律・命令・規則の順守、②「堅忍不抜ノ精神ト不撓不屈ノ勤労」の発揮、③納税の完納、④儀礼の簡素・節約化と虚礼の廃止、⑤服装の質素化、⑥時間厳守の励行、⑦部落共有財産の造成、⑧美風・礼儀・信義など秩序の確立、⑨近隣の和合と相互扶助(手稲村史原稿)。またあわせて戊申詔書の実行のために勤倹貯蓄組合も結成されている。
藻岩村では明治四十五年二月に盛徳会が創設されている。同会の目的は「教育勅語の聖旨を奉体して村内に於る孝子、順孫、節婦、精励者、公共事業尽瘁者及び優良生徒を表彰」するものであり(北タイ 明45・2・28)、有志者の寄付金一二〇円で事業活動を運用することになっていた。