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青物市場

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 札幌区には蔬菜、果実を扱う青物市場は会社組織のものとしては存在しなかった。ただ、明治四十一年八月に山鼻村横嶋由太郎が南二条西一〇丁目にて青物市場を開業したという記事はある(北タイ 明41・8・3)。青物市場は、建物、設備があまり必要ないことから、実際にどこでどのように営まれていたかわからない。そうしたなかで大正四年頃から区営青物市場設立の要求が果実・蔬菜商の間からおこってきた。すでに明治三十七年七月に札幌果実蔬菜商組合が結成され、大正四年には組合員数一五〇人をかぞえていた(札幌商業会議所年報 大4)。この果実蔬菜商組合が青物市場設立の中心となったのである。六年春には豊平町の林檎商三上音槌を委員長に青物市場創立委員会がつくられ、創立事務所を果実蔬菜商組合長西沢安吉林檎店に置いた(北タイ 大6・3・23、札幌商業会議所年報 大6)。市場の設置場所は大通東一、二丁目であった。同年二月と六月に分けて露店設置の認可がなされ、八月に糶市場設立の認可がなされた。組合員一八〇人が一口五円の出資金を一〇〇〇口まで醵出し営業資金とする予定であった。露店は間口二間奥行き二間のものを三七戸つくり、そのうち四分の一を生産者に無料で利用させ、ほかは有料で貸し付けることになっていた(北タイ 大6・8・30)。このようにして札幌青物市場は十月に開業した。営業種類は卸売、小売を兼ねており、開業記念の福引も行われ盛況であった(北タイ 大6・10・5)。
 このほか円山村(藻岩村字円山)では、明治末年から路上円山朝市が行われていたという。市街地の拡大と蔬菜生産の増加により、大正七年には円山蔬菜組合(組合長上田万平)が結成され、組合を母胎に五月から一〇〇〇坪の敷地で蔬菜市場を営業することになった(北タイ 大7・4・23)。広告には次のように述べられている。
   弘く大方の諸君に告く
毎度皆様御愛用の円山独特手作りの採りたての青々生き々々した最もオイシイ畑の者山の者に限らずアラユル青物類を最もオヤスクドシ/\売りますなんと経済ではありませんか何卒ドナタデモ毎早朝より賑々しく左記の所に御出で下さいませ
売 場 円山市街地十字街側(札幌青物共同購買所にあらず)
    円山蔬菜組合 円山蔬菜類販売所
(北タイ 大7・4・25)


写真-1 円山蔬菜市場

 札幌青物共同購買所というのは、南一条西一八丁目に青物仲買商がつくったもので、当初円山蔬菜市場と一本化する構想もあったが、まとまらず分立したものである(小樽新聞 大7・1・23)。このように第一次世界大戦期に蔬菜・果実流通組織は急速に整備されたのであった。