開戦から一二日を経過した三十七年二月二十二日に、官幣大社の札幌神社では道庁長官園田安賢が勅使となって宣戦奉告祭が行われた。それに前後して、豊川稲荷での「宝祚長久海陸軍戦勝祈祷」、成田山での「皇軍必勝敵国降伏」の大護摩秘法をはじめ、三吉神社、湯殿山、経王寺など区内各所の神社・寺院でも相次いで戦勝祈祷の祭祀・仏事がさかんに行われた。今回の戦争はヨーロッパのキリスト教国との交戦であっただけに、日露戦争はさながら宗教戦争の様相を帯び始めてきていた。
区内一六寺の連合からなる各宗聯合仏教会では、三十七年四月に軍事保護会を設置し、戦争終局まで会員から毎月五銭以上を醵出し、恤兵部、日本赤十字社、軍人遺族救護費に献金することを決定しているが(北タイ 明37・4・12)、戦時中は各寺、檀家組織、講などによる献金活動がみられていた。それらと並行して、各寺社では戦死者追悼吊会、慰霊祭も実施されていた。たとえば三十七年九月十一、十二日に各宗聯合仏教会では、大通西五丁目で征露軍人戦死者追悼吊会を開催し、この法会には官公署、学校生徒、第二五聯隊、各団体など二万人余りが参列する盛儀であった。
以上の活動のほかに仏教演説会も開かれ、戦争の正当化と国意発揚が鼓舞されていた。三月十八日、西本願寺別院で開かれた各宗聯合仏教会主催の仏教演説会で金森通倫は、「日露戦争の必ず勝つべきこと、唯だ其の勝つは容易のことならす、然ば国民は(一)戦争は短日月に終局せさるもの、(二)何万人の死者あるも露国を屈せしむるまで戦ふべきこと、(三)金は何程にても支出することゝの覚悟をなすこと緊要なり」と述べ、区民からおおいに喝采を浴びていたが(北タイ 明37・3・19)、日露戦争が犠牲者、国費消耗でいかなる悲惨な結果をもたらすものであったかを、この時点で区民はいまだ思い巡らすことができなかった。