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社会問題研究会

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 三十五年六月、北海禁酒会の熱心な会員であった竹内余所次郎前田英吉が中心になり、社会問題研究会が結成された。
 竹内余所次郎は慶応元年(一八六五)に金沢で生まれ、地元の医学校に学び、上京して英語を学習しラムの「シエクスピア物語」のなかのリヤ王の部分を訳し、『西洋歌舞伎種本』と題して刊行したりしたが、文学者の道はたどらず薬剤師となった。小笠原島の開拓を志したが成功せず、北海道開拓に転じて、明治二十四年四月、札幌農学校農芸伝習科に入学したが、中退し北海道毎日新聞に入社。その後阿部宇之八らの出資を受けて、愛山堂薬房を経営し、北海禁酒会で活動した。三十三年に近文に移り役場の書記となったが、間もなく退職し「六万坪開墾」を目標に農業を始める。「万朝報」への投書が縁で堺利彦と知り合う。結局開墾に失敗し、三十四年に札幌に戻り、再び愛山堂薬房を経営。三十五年九月十二日、理想団札幌支部を結成し、「万朝報」で理想団を担当していた幸徳秋水とも知り合いになった。
 前田英吉は安政六年(一八五九)に丹波氷上郡下竹田の湯長谷藩代官依田家に生まれたが、父の死去により父の実家である船井郡須知の造酒屋前田家の養子となり、自由民権運動に参加し、植木枝盛の計画した酒屋会議に賛同したり演説会を開催したりしていたが、キリスト教に入信し、家業の酒造を廃止した。明治二十五年六月、北海道に渡り、札幌で商店を経営したが思うようにならず、二十七年から雁来で果樹園豊水園を経営した。その後札幌で綿ネル店を経営。北海禁酒会に参加し、竹内余所次郎と知り合いになった。
 社会問題研究会の会員は四〇人ほどであったが、キリスト教徒がほとんどで、中年の社会人であった。橘仁(果樹園経営)、飯田雄太郎(画家、札幌農学校講師)、忍鶴太郎(木材業者)、中村信以(書店経営)、桟敷新松(教師)、高北三四郎(牧師)が有力会員であった。中心人物の竹内余所次郎前田英吉社会主義者であったが、会員の過半は人道主義者であって、必ずしも社会主義に賛同していたわけでなかった。
 研究会は、少人数のため前田商店で開催される場合が多かった。新聞はたまに「社会問題研究会 今廿二日午後七時半南一条西二丁目前田商店楼上に社会問題研究会といふを開く由」(北タイ 明35・7・22)というように集会の案内をしてくれたが、研究会内容を報道してはくれなかった。
 竹内と前田は研究会の拡大をはかるため、三十六年八月九日、幸徳秋水の来札を機会に、社会問題研究会の公開演説会を禁酒俱楽部で開催した。
弁士は前田英吉君、竹内余所次郎君と我との三名なりき、此会、今より社会主義協会と改名して、東京及び各地の同志と聨絡し、一致の運動を為すこととなれり
(幸徳秋水 北遊漫録)

 竹内は「現時社会の弊害」、幸徳は「社会主義の現況」の題で演説を試みたが、これははっきりと「社会主義演説会」を名乗った札幌最初の演説会であった。