烈々布の住民のほとんどが富山県人であり、越中の文化の継承が若連中の重要な活動となってゆく。若連中をあげて越中踊りを古老から習ったり、熱心な真宗地帯からの移民ということもあり、親鸞上人の忌日にいとなむ一月の報恩講が会の重要な行事となった。また三十四年四月には、村内有志の寄付を得て富山から神楽獅子舞の師を招き、毎年秋の例祭で奉納されることとなった。
有名な篠路歌舞伎のはじまりは、三十五年四月の春祭の余興にあり、村内会員の大沼三四郎(芸名花岡義信)を師として「其所ガ江戸ッ子」(『綴』)の狂言が演じられた。そして四十四年四月二十五日の春祭をもって、素人芝居の舞台となる烈々布俱楽部が烈々布神社の境内に落成した。
こうした地域に根ざした篠路歌舞伎のあり様を、『北海タイムス』(大5・5・9)は「芝居道楽の村会議員様」と題し生き生きと伝えた。
篠路村大沼三四郎氏は、村会議員の肩書よりも烈々布青年会素人芝居の座長さんの方が通りが好いと云位の芝居道楽で、札幌の大黒座か札幌座に有名な一座が乗り込んだと聞けば必ず万障を繰合せて見に行(中略)烈々布青年会素人芝居には昨年多額の金を投じて廻り舞台が出来た、本道広しと雖も素人芝居に廻し舞台迄出来て居のはなからう、まだ廻し舞台なるものを見た事も聞いた事もない田舎の老若男女は二三里の遠方から態々それを見に雲の様に集まって来る有様である
そして芝居本番の篠路烈々布天満宮例祭の状況として、青年会が大正五年度拡張した神社の境内は立錐の余地なき人山で、露店が軒を並べる。昼の社前においては烈々布少年団の剣道の野試合が行われ、夜は「例の芝居道楽花岡義信事大沼三四郎氏の十八番にて(中略)劇は前夜(編注・二十四日)川上行義通し、後夜(編注・二十五日)はオセロ、神霊矢口の渡し及び喜劇代診等、何れも円熟せる技倆を観せ」、夜を徹し翌朝まで満員の客をわかせるというものであった(北タイ 大5・7・30)。
大正初期まで、この素人歌舞伎は烈々布の青年会と一体化したものとして演じられるが、大正六年の「素劇楽天会」(座長花岡義信)旗揚げ以降、烈々布の枠組を越え、丘珠村や篠路村十軒の会員も含んだ地域の演劇集団となってゆく(中村美彦 篠路歌舞伎ノート)。
写真-15 烈々布青年会(明43.9)