在郷軍人会とは、二年あるいは三年の現役を終え地域社会に帰り、予備役・後備役となった軍人たちを組織したものである。日露戦後の地方改良をになう重要な統合団体である在郷軍人会に、何が求められたのか。北海道の実業補習学校や青年夜学校などでテキストとして北海道連合教育会が編んだ『北海道青年読本』(巻六、大8刊)では、「青年と在郷軍人」の章で陸軍大臣田中義一の議論を引き、「在郷軍人は国民の模範を以て自ら任じ、郷党の青年を善導・扶掖(ふえき)するの資質を備へ、且その責務を負うて居る」とする。そして軍事に関わっては、欧米では軍隊と社会の関係が密接で「軍事思想」「軍事的技芸」がゆきわたっているのに対し、「我が国では、軍隊と一般社会とは其の起居の状態に大懸隔がある」とし、軍隊と社会をつなぐものとして、ここに在郷軍人会の役割を求めたのである。こうした『読本』の文言を、村々の青年は農作業の後に音読し書き写したことであろう。
さて大正四年の帝国在郷軍人分会の札幌支庁管内連合分会の旗揚げ時には、札幌区の他に豊平町、札幌村、篠路村、琴似村、手稲村、白石村、藻岩村の各町村に、すでに分会がはりめぐらされていた。
札幌における帝国在郷軍人会の沿革をたどる。日清戦後、明治三十五年五月に創設された札幌兵談会は、陸軍歩兵少佐吉田清憲を会頭とし、「札幌区及其附近在住在郷軍人の和親団結を図り一般人民の尚武心を啓発する目的」として出発した(小樽新聞 明41・2・13)。四十一年二月十一日の紀元節をもって札幌在郷軍人団と改称された。そして四十三年十一月三日(天長節)の陸軍省指導による全国的な帝国在郷軍人会の結成にともない、正式名称を帝国在郷軍人会札幌区分会とし、この段階で二〇〇〇余人の会員を擁することとなった。
全国的な動きに連動して四十三年の天長節の同じ日に、札幌区だけでなく、いまだ在郷軍人会の組織がなかった藻岩村でも、円山の役場に四四人が参会のうえ分会の発会式が執り行われた。札幌周辺諸村の在郷軍人会分会が結成されたのはこの頃で、札幌周辺の町村史や『村勢一班』によると、豊平町が四十一年一月、手稲村が四十二年二月、琴似村が四十三年十月二十四日、白石村が四十四年二月となっている。篠路村では三十七年に「軍事擁護」を目的にして創立された奉公義会が、後に在郷軍人会分会として再編された(篠路村沿革史)。
しかしながら、いまだ分会創立間もないこの段階では活動は不活発だったようで、四十四年三月八日の『北海タイムス』には、「帝国在郷軍人会札幌区分会は将校のみにても百数十名の会員を有するに係はらず従来の事業萎靡として振はざる」は遺憾として、三月十日に豊平館で行われる日露役戦捷紀念祝典の成功にむけて、官衙銀行会社にオルグにまわる在郷軍人会会長らの姿を伝え、同紙は「忠良な軍人」はこの祝典を等閑視すべきではないと訴えた。同年七月には札幌区分会や琴似村分会で、「分会神髄の表章」としての在郷軍人会旗の奉戴式が行われた(北タイ 明44・7・17)。