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創立の契機としての「近文アイヌ給与地問題」

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 小谷部が帰国した翌年(明32)、「北海道旧土人保護法」が施行されたが、アイヌ民族をとりまく社会的・経済的状況は一向に「改善」される気配がなかった。小谷部も三十二年十一月、胆振、日高方面のアイヌ民族の生活や教育の実態を調査したが、その生活は三十一年の洪水も相まって、「其日の食を得るところなく僅かに官より与へらるゝ少量の粟にて其日の食を凌ぐのみ」(道毎日 明32・8・23)というきわめて悲惨な状況であった。小谷部はその理由を「邦人のアイヌ民族を化外に棄擲」(同前)した結果であると述べている。
 こうした当時のアイヌ民族の状況を象徴する事件が、いわゆる「近文アイヌ給与地問題」である。これは三十二年二月の陸軍第七師団司令部の札幌から上川郡鷹栖村近文への移転計画が発端となった。近文には師団司令部予定地に隣接してコタンがあり、三十年の調査では四〇戸一八七人のアイヌ民族が生活していた(旭川市史 第一巻)。この計画の具体化とともに、都市計画上や衛生上の理由から、近文アイヌを移住させる意見が持ち上がったり、大倉喜八郎らが近文アイヌへの給与予定地に目を付け、北海道庁へ同地の払い下げを画策したりするなど、アイヌ民族を追放しようという動きが活発化した。実際に北海道庁は三十三年二月、大倉に給与予定地の払い下げを許可し、一定の条件で近文アイヌ全員を天塩川上流のテイネメムへの移住を命じた。
 これに対して、近文アイヌの川上コヌサアイヌや小樽アイヌの天川恵三郎らは、前年施行された「北海道旧土人保護法」の趣旨にも反するので、内務大臣等への陳情を行い、北海道庁の払下許可と移住処分を取り消させた。この決定にあたってはアイヌ民族自身の運動に加えて、当時の『小樽新聞』『北海道毎日新聞』などの道内紙はもとより、『時事新報』『東京朝日新聞』などの道外紙も北海道庁の不当な処分に対する批判記事をたびたび掲載し、近文アイヌの運動を援護したことも大きな力となった。またこの時、近文アイヌを支援したのが、後に同会の役員となる近衛篤麿島田三郎、そして片岡健吉であった(道毎日 明33・5・24、25)。
 しかし、処分取消後も給与予定地は「北海道旧土人保護法」に基づいて、アイヌ民族には「下付」されず、あくまでも給与予定地のままであったので、その利権をめぐる和人の動きが活発化し、同地のアイヌ民族の利用権は実質的に奪われたのに等しかった。
 小谷部はこうした状況を目の当たりにして、「済世救民の天業に従事」(小谷部 純日本婦人の俤)することを思い立ち、帰国後勤めていた横浜組合基督教会の牧師を辞任し、「人の顧るものなき無告可憫(ママ)の北海道旧土人の救済教育の為に」(同前)奔走する。ようやく近衛らの賛同を得て、三十三年五月十日同会の創立にこぎつけることができた。
 こうして、小谷部の動向を軸に北海道旧土人救育会の創立までの経緯をたどってみると、それは当時のアイヌ民族が置かれていた社会的、経済的状況を象徴する「近文アイヌ地問題」との関連を抜きにしては考えることができない。創立の直接的な契機は「近文アイヌ給与地問題」であったといってよい。同会の実質的な発会式で、三十三年五月二十六日に東京市神田区のキリスト教青年会館で開かれた「北海道旧土人救育会演説会」には、衆議院議員の根本正や石川安次郎らとともに、弁士の一人として近文アイヌの川上コヌサアイヌが招請されたことは、これを裏付けるものである。