それではどのような理由から円山村をアイヌ実業補習学校の設立地として選定したのであろうか。『北海道旧土人救育会虻田学園報』(第二号)は「小谷部氏北海道ニ出発シ各地巡視ノ後札幌郡円山村ヲ選定」、また『教育公報』(第二四〇号)は「小谷部全一郎氏視察のために北海道に派遣せられたる結果札幌郡円山村に於て適当な地面を得」というように、いずれも円山村を選定した事実のみを記し、その理由にはまったく言及していない。
小谷部が当時の北海道の各区町村のなかで、直截に円山村を選定したとは考えにくい。実業補習学校の性格を考えると、最初に札幌区を選定し、次いで隣接する諸村のなかで円山村を選定したと見るのが自然である。円山村は副次的な存在であるといってよい。したがってそれは円山村よりも、隣接する市街地として札幌区を選定した理由を明らかにすることによって自ずと浮かび上がってくるはずである。この当時、北海道内で市街化が進み、区制を施行していたのは札幌区以外では、函館と小樽の両区である。区民一人当たりの北海道地方税の賦課額を勘案しても(北海道庁統計書)、三区のなかでは財政的基盤が必ずしも強固ではない札幌区を選定したのは、次のような理由が考えられる。第一に札幌区の北海道のなかでの政治的位置づけである。札幌区は北海道庁の所在地であり、北海道の政治の中枢である。同会の活動にとっては何よりも北海道庁の協力が欠かせず、その所在地の周辺に実業補習学校の設立地を求める必要があった。第二に札幌区の北海道のなかでの地理的条件の優位性である。このアイヌ実業補習学校の入学者は全道各地のコタンから募集することを想定していた。札幌区は他の二区と比較して中央部に位置し、距離的にも各コタンからの入学者を受け入れやすい条件を備えていた。
推測の域はでないが、小谷部はこうした理由から三区のなかで札幌区を選定したと思われる。実業補習学校は実習地を必要とするなど、その設立にあたっては他の校種と比較して、ある程度広い土地を確保しなければならない。しかし、区内ではそれに適し、払い下げ可能な土地を求めることはできなかった。そこで隣接する諸村に目を向け、円山村を選定したわけであるが、どのような点で円山村が条件的に優れていたのであろうか。当時、札幌区に隣接するのは円山村のほかに、山鼻村、豊平村、苗穂村、札幌村などの各村が存在していた。他の村落と比較して円山村は地形が変化に富み、農業以外にも多様な実習が可能であった。また、実際に払い下げ可能な土地として宮内省所管の円山養樹園(現円山公園)や陸軍省所管の火薬庫地(現啓明地区)を有していた。特に前者は養樹園を実習地としてそのまま利用でき、さらに周囲には官林も広がり、最適の条件を備えていた。また、隣接する札幌神社もアイヌ民族の「同化」を促す意味では格好の施設であった。しかし、どちらの土地を選択したのかは史料的な制約もあり、現時点では不明である。いずれにしろ、円山村はアイヌ実業補習学校の設立地としての条件を満たした土地であったといえよう。