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尋常科の授業料徴収制の実態

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 前述したように、「第三次小学校令」は市町村立尋常小学校の授業料不徴収を原則としていた。この点に関して、文部省は次のように説明している。「時勢ノ進歩ニ察シ且義務教育ノ性質ニ考フルニ尋常小学校ノ授業料ヲ徴収セサルヲ本体ト定ムルハ当然ノコトニ属スル」(文部省訓令第一〇号、明33・8・22)。文部省は「義務教育ノ性質」に基づくという曖昧な説明をしているが、本音は松浦鎮次郎が『教育行政法』で述べたように、「小学校ノ無月謝ハ義務教育ニ伴フ当然ノ結果ニ非スシテ義務教育ヲ普及セシメントスル行政ノ便宜ニ出ツルモノニ外ナラ」なかった(田原宏人 授業料の解像力)。授業料の不徴収は就学督励策の一環として位置づけられていたのである。
 この授業料の不徴収制は「第三次小学校令」の公布以前の段階では、財政的に「痛苦の感を覚ゆべきは二三の都府に過ぎ」(小樽新聞 明33・5・8)ないという楽観論もあった。しかし、公布後は「三区及び一級町村中の重なるものは教育費の大なると共に其授業料は自ら一の財源をなし今俄かに之を全廃するは収入の上に甚だ苦痛」(小樽新聞 明33・9・30)という悲観論が支配的になってきた。事実、札幌区でも三十二年度後半期の歳入額中、小学校授業料(高等科分も含む)は一二・四パーセントを占めていた。三十三年度でも一一・九パーセントであったように、札幌区の歳入のなかで授業料への依存度はきわめて高かった。授業料の徴収を抜きにしては、札幌区の財政は成り立ちえなかったといえよう。『北海道毎日新聞』(明33・10・28)は、授業料問題に関する当時の札幌区の意見を次のように報じている。
授業料全廃は今俄かに条例(編注「第三次小学校令」)通りに之を励行すること難く、其の地方の情況如何によりては素より例外法の規定もあることなれは、先つ来年度に於ては従来の授業料の幾分を減じ、又其の翌年に至りては猶ほ幾分の逓減を行ひ、漸次全廃の精神を貫くの考へなり

 このように札幌区は段階的廃止論の立場に傾いていたが、それは「授業料全廃の区の学事経済に少なからさる影響」(小樽新聞 明33・11・9)を考慮してのことであった。また、その背景には「民度に於て就学生徒を減じるの恐れなき」(同前)という区民の教育への関心の高まりがあったことも見のがせない。
 北海道庁はそうした区町村財政への影響を考慮して、三十四年度から三カ年の猶予期間を経たうえで、授業料の廃止を決定した(道毎日 明34・1・19)。廃止の方法は三十四年度はこれまで通り全額徴収するが、三十五年度にはその三分の二以内、三十六年度にはさらに三分の一以内、そして三十七年度には全廃というように段階的に実施しようとした(道毎日 明34・1・23)。この決定時期は不明であるが、三十三年十二月には北海道庁は「第三次小学校令」の例外規定(第五七条第二項)に基づいて、「小学校授業料ニ関スル件」(内教第三五二三号)という内務部長通牒を各支庁長・区長宛に発し、授業料徴収の手続きを明確化した。それによると、認可申請書には「授業料ノ額(一家二人以上同時ニ就学スル者ニ対スル額ハ区分スヘシ)徴収スヘキ年度」に加えて、区町村の財政状況を判断するために「戸数」「最近三ヶ年ノ区町村費総額並一戸平均賦課額」「区町村有基本財産及其財産ヨリ生スル収入」「生徒数及其一人ニ対スル教育費」「区町村債及其消却方法」を明記し、提出することを義務づけた。
 札幌区では明治三十四年の第八回区会で、区立尋常小学校の授業料の段階的廃止計画を決議、可決した。それによると、三十五年度は生徒一人に付き一カ月一二銭(一家に生徒二人以上の場合には、一人以外は六銭)、三十六年度は一カ月六銭(同三銭)、三十七年度は全廃という計画であった。そのうえで、三十四年度の授業料は前年制定した「区立小学校授業料規程」(訓示第二号、明33・1・27)に基づき、一カ月二〇銭(同一〇銭)を徴収することにした。「第三次小学校令施行規則」(文部省令第一四号、明33・8・21)では、尋常小学校の授業料を「市ニ在リテハ一箇月二十銭以下、町村又ハ町村学校組合ニ在リテハ一箇月十銭以下」と規定している。札幌区はこの規程中の「市」を「区」と読み替え、最高限度額を徴収した。ちなみに、尋常小学校の授業料は函館、小樽の両区でも札幌区と同様に徴収した(小樽新聞 明33・11・9)。
 札幌区の明治三十五、三十六年度の授業料は当初の計画に従って逓減し、全廃予定の三十七年度を迎えた。しかし、区制施行以来の学齢児童の増加(三十二年度五〇二〇人、三十四年度五四一二人、三十六年度六六二七人)に伴う教育費の増大(三十二年度二万四三七五円七〇銭六厘、三十四年度三万二六一五円五三銭三厘、三十六年度三万九五五九円六八銭九厘)によって、全廃はきわめて困難になった(北タイ 明37・3・19)。そこで、改めて北海道庁へ申請し、三十七年度限りの措置として生徒一人に付き一カ月六銭の授業料の徴収が認可された(北タイ 明37・3・25)。小樽区の場合は一度却下されたが、再度申請し札幌区同様の認可を受けた(同前)。
 札幌区は明治三十八年度も一カ月六銭の授業料の徴収を申請したが、この時は北海道庁が却下した(北海道教育雑誌 第一四八号)。このことに関しては創成尋常小学校の『沿革誌』にも「〔明治三十八年〕四月十五日尋常科授業料ヲ本年度ヨリ徴収セザルコトヽナル」と記されている。しかし、「札幌区明治三十八年度歳入歳出決算表」を見ると、授業料が徴収されている。三十九年度も一カ月一〇銭を徴収している。それぞれの経緯は不明であるが、いずれにしろ北海道庁の認可を受けたことは確かである。おそらく三十七年度と同様、特例措置として認可されたのであろう。
 明治四十一年度の授業料は学年によって差異を設け、尋常科第一~四学年は一カ月二〇銭、第五、六学年は一カ月六〇銭とした(高等科も六〇銭から八〇銭へ改定)。これは義務教育年限を六カ年に延長した四十年の「第三次小学校令」中改正に伴う、文部大臣の注意事項でも「其ノ額ニ差異ヲ設ケサルヲ原則トスルハ勿論」であるが、「経済上洵ニ已ムコトヲ得サル」措置として認めていた(文部省訓令第一号、明40・3・25)。授業料の徴収自体も四十一年度から五カ年に限って認可を受けていた。この場合は尋常科第五、六学年の授業料が規程の限度額(二〇銭)を上回るので、制限外徴収の認可も合わせて受けたものと思われる。
 この四十一年度の改定は、各校で授業料未納者が続出したように、尋常科高学年以上の児童を抱える家庭にとっては大きな経済的負担となった。「自四月至十月授業料納付人員成績調書」によると、四十年は各校とも未納者が出なかったのに対して、四十一年では創成尋常小学校が六二四七人(調定人員)中二四三人、豊水尋常高等小学校では七〇二八人(同)中三六〇人、札幌女子尋常高等小学校が一万四九二人(同)中二二〇人がそれぞれ未納者で、札幌区全体では一三七六人に上っていた(札幌区役所 明治四十一年一月起 参考 雑之部)。札幌区はその後も継続して授業料を徴収し、大正二年度には尋常科第一~四学年は一カ月二〇銭、第五、六学年は一カ月四〇銭、四年度には尋常科全学年一カ月二〇銭、九年度には尋常科全学年一カ月三〇銭にそれぞれ改定した。
 このように尋常小学校の授業料不徴収の原則は、札幌区の「逐年就学児童の増加に伴ふ教育費の増額の幾分を補はん」(北海之教育 第一八二号)という財政上の理由により形骸化していった。授業料の徴収に関しては北海道庁への申請に先だって、まず区会に議案として上程される。しかし、区会では実質的な審議が行われず、区側の原案がそのまま可決されるのが常であった。区の行政をチェックする区会の役割を放棄していたといってもよい。授業料の徴収をめぐっては常に区民不在で決定され、それも札幌区の申請と北海道庁の認可という行政機関相互の問題だけに終始していた。
 この授業料徴収問題に関して触れておかなければならないのは、日露戦争との関係である。北海道庁は、日本がロシアに対して宣戦布告をした直後の明治三十七年二月末、各支庁・区役所などへ訓令を発した(訓令第二二号、明37・2・28)。それは文部省の訓令を受けて、日露戦争に出征、応召した軍人の子弟に対し、授業料の免除や学用品の給付などの措置を実施させる内容であった。札幌区でもこれに基づいて、「区立小学校授業料規程」に追加する形で、「軍人軍族ノ家ニ在ル生徒ニシテ其軍人出征不在中ハ授業料ヲ免除ス」(第五条)という規定を盛り込んだ。四十一年度には免除規定の一部を「軍人軍族ノ家ニ在ル生徒ニシテ其ノ軍人軍族戦時若クハ時変ニ際シ応召中ハ授業料ヲ免除ス」と改定し、授業料免除の範囲を拡大した。
 札幌区に隣接する諸村の授業料徴収の実態は史料の制約もあり、明治三十五年の白石村の事例を紹介できるのみである。『北海タイムス』の記事によると、白石村では村会の決議を経て、「小学校生徒授業料規則」を制定し、尋常科生徒一人に付き一カ月一〇銭を徴収したと報じている(北タイ 明35・11・18)。当時の白石村は村費中、教育費が約六〇パーセントを占め、村財政を圧迫していた(北タイ 明35・12・25)。