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大学昇格の具体化

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 札幌農学校の大学昇格が具体的な政治日程のなかに上ったのは、日露戦争後の明治三十九年である。同年五月、北海道庁長官園田安賢は戦後の北海道経営の方針として「北海道事業計画案」を発表し、そのなかに大学と大学予科の設置を盛り込んだ(北大百年史 通説)。これによって、大学昇格問題は北海道庁の施策の一環として位置づけられ、運動の推進を加速した。同年六月七日には札幌区会議員土屋轍村田不二三、斉藤亨の三人は「帝国大学設立ニ関スル建議」を提出し、区会で可決された。前年三十八年十一月の北海道会でも「北海大学設立の建議」が全会一致で可決され、文部大臣牧野伸顕へ提出された(北タイ 明39・6・3)。
 一方、「北海道帝国大学設立期成会」も同年七月、藤井民次郎、東武の両名を東京に派遣し、北海道帝国大学設立費を四十年度に予算化することを文部大臣に陳情した(北タイ 明39・7・19)。同年八月九日には北海道協会が総集会で「札幌農学校を農科大学と為す事」を決議し(北タイ 明39・8・14)、同月十五日には同会会頭二条基弘(貴族院議員)は「北海道農科大学設置ニ付意見書」を文部大臣に提出し、「帝国学政上極めて必要」であることを力説した(北海道帝国大学論集)。また、二条は数日後に改めて文部大臣に面会し「意見を陳情」した(北タイ 明39・8・23)。同じ時期、札幌では区民によって文部大臣宛の陳情書への署名活動が展開された(北大百年史 通説)。同年十一月二十一日には札幌区会は「札幌農学校ヲ農科大学ト為スノ意見上申」を内務大臣原敬に提出し、同大学の四十年度設立を訴えた(札幌区役所 北海道帝国大学設立趣意書)。
 こうした大学昇格運動に加えて、足尾鉱毒事件で糾弾された古川市兵衛の遺族から一〇六万円の寄付もあり、同年十二月には福岡工科大学、東北帝国大学理科大学とともに札幌農科大学の設立が決定した。そして、札幌農科大学は東北帝国大学の分科大学として、東北帝国大学農科大学と命名された(北タイ 明39・12・8)。翌四十年六月には仙台に帝国大学として東北帝国大学を設置し、札幌農学校東北帝国大学農科大学とすることが勅令(第二三六号、明40・6・21)によって正式に定められた。また、同大学に設置する学科は農学科・農芸化学科・林学科・畜産科の四学科で、講座は農学(講座数二)・農芸化学(同二)・農芸物理学(同一)・植物学(同一)・動物学(同一)・昆虫学(同一)・養蚕学(同一)・園芸学(同一)・畜産学(同一)・農政学(同一)・殖民学(同一)の合計一二講座とされた。教官は教授一二人・助教授八人・助手一五人であった。同大学には大学入学のための三年制の予科も設置された。

写真-19 東北帝国大学農科大学養蚕室