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図書館活動の近代化

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 大正四年は教育会図書館の歴史のなかで、実に大きな意味を持つ年である。区民のニーズに即した「通俗図書館」への第一歩を踏み出したからである。これは同年一月、富貴堂書房から一〇〇〇円の寄付を受けたことがきっかけで(北タイ 大4・1・12)、同会はさっそく施設の整備と新刊書の購入を決定し、これを担当する図書調査委員として村上壬平(北海道庁視学)、宮沢寅雄(北海道師範学校教諭)、堀沢周安(札幌第一中学校教諭)、上田守蔵(北海道庁立札幌高等女学校校長)、小鹿達三郎(札幌区立西創成尋常高等小学校校長)ほか三人を委嘱した(北海之教育 第二六六号)。同会はまた、幹事の一人を東京の日比谷図書館をはじめとして、大阪、秋田、福岡の各図書館に出張させ、当時の図書館界の最新情報の把握に努めた(同前 第二六七号)。
 この整備に合わせて、開館時の「北海道教育会附属図書館規程」を全面改定した。新たに閲覧者へのサービス向上を主眼とした一六条から成る「北海道教育会附属図書館規則」を制定した。その第一条に目的が次のように記されている。「本館ハ主トシテ通俗教育ニ資センカ為図書並新聞雑誌ヲ蒐集シ公衆ノ閲覧ニ供スル」。開館時間は夏期(四月一日~九月三十日)に限って、これまでより二時間延長し午後六時までとした(第二条)。また、休館日も祝祭日や年末年始、曝書期間(五日間)などを除いて、特定の曜日を設定しなかった(第三条)。特別に規定されてはいないが、利用の促進を図るために縦覧料も全廃された(北タイ 大4・4・17)。
 さらに注目すべき点は、「児童縦覧室」を設置し、これまで排除していた少年少女に門戸を開放したことである。第四条では次のように規定している。「年齢十二年以上ノ者ハ何人ニテモ閲覧スルコトヲ得、年齢十二年未満ノ者ノ為ニハ別ニ児童縦覧室ヲ設ク」。「小学校生徒ノ閲覧規則」を制定し、少年少女を図書館利用者の一員として最初に位置づけたのは、明治二十年に設立された大日本教育会附属書籍館である。こうした試みが本格化するのは明治三十年代以降で、三十二年設立の県立秋田図書館は閲覧者の年齢を一二歳以上とした。四十一年設立の東京市立日比谷図書館は、閲覧料無料の「児童室」を設置し、少年少女の利用を奨励した(佐藤政孝 図書館発達史)。
 大正期に新設された大都市の図書館では、ほとんど例外なく児童室が設置された(日本近代教育百年史 第七巻)。この背景には大正デモクラシー下の、鈴木三重吉主宰の雑誌『赤い鳥』の創刊、北原白秋の童謡などに象徴される児童文化運動の高まりが存在していたことはいうまでもない。また大正七年には、日比谷図書館館頭の今沢慈海らによって『児童図書館の研究』(博文館)が出版された。教育会図書館の少年少女への門戸開放はこうした動向を踏まえたものであった。まさに近代図書館への脱皮といえよう(坂本 私立北海道教育会附属図書館)。
 これら改善策が功を奏して、四年度の閲覧者数は四万二〇三六人に達した(表7)。大正五年に入っても閲覧者は相変わらず多く、『北海タイムス』(大5・8・30)は「教育図書館盛況」と題する記事を掲載したほどであった。それによると、同年七月の開館日数は二九日間で、閲覧者数は四四八八人(一日平均一五五人)であった。その内訳は官公吏一二二人、学生九〇二人、教員一三人、実業家一五四人、その他三三八人、新聞雑誌閲覧者九九二人、児童一九六七人と記している。児童が閲覧者の実に四三・八パーセントを占めていたのである。
 このように教育会図書館の運営は軌道に乗ってきたが、大正七年五月三十一日、その母体である北海道教育会は解散し、新たに北海道聯合教育会として再発足することになった。これに伴って教育会図書館は紆余曲折を経て札幌区教育会へ無償譲渡され、名称も札幌区教育会附属図書館と改めた。

写真-20 札幌区教育会附属図書館(大7頃)