このように、明治末頃までは少なくとも人数的には札幌興風会等による旧派が圧倒的であったが、大正に入ると中央の新しい動きの影響を受けた歌人が多くなり、短歌会も結成された。
まずそれぞれの中央結社も含めて略記すると、与謝野鉄幹・晶子を中心とする新詩社の影響で明治四十一年に函館に『紅苜蓿』が創刊され、その同人として向井夷希微、松岡蕗堂らが札幌で活躍した。前記石川啄木も向井の世話によって下宿を定めた。また大正二年に『生活と芸術』を創刊した土岐哀果が同六年八月に来札し、哀果に協力した西村陽吉も大正に入って二~三度来札している。同じ六年八月に『アララギ』系の島木赤彦が来道しているが、来札したか定かではない。また十年には、明治三十一年に『心の華』(のち花)を刊行した竹柏会系の川田順が来札している。このほか、たとえば朝倉菊雄(島木健作)などが中央の歌誌に投稿していた。さらに十年八月に『潮音』の主宰者太田水穂らが来札、これを機に札幌潮音会が結成され、翌年五月に東京から転入した『潮音』編集同人の山下秀之助が加入した。
こうした活動の中で、短歌雑誌がいくつか刊行された。まず七年の初め頃『オリーブ』が仁木村で発刊されたがまもなく札幌に移り、安達不死鳥が中心となり、遠藤勝一、玉貫光一、朝倉菊雄が参加している。また『冷光』も七年頃まず小樽で創刊され、九年四月に札幌に移った。大堀允彦が編集にあたり、九年に札幌に転入した芥子澤新之介らも加わっていた。さらに十年八月に純短歌雑誌として『野の花』が創刊されたが、同人には安達不死鳥、佐藤羽嶽、佐久間砂汀路、栗原清治、川崎比佐志、代田茂樹らがおり、流派的偏向を排し、添削を否定しようとする自由な姿勢をもっていたという。さらに十一年十月に川崎肖(尚)の編集、安達不死鳥の発行で『アカシヤ』が創刊された。
このような中で、十年五月に第一回札幌短歌会が発足した。会員には代田、安達らの生活口語派と、山縣汎、村田十四雄(豊雄)ら文語派もいて論争が行われ、また山縣、藤村千代(のちの宇野千代)、増川順子(のちの山田順子)らも出席した。
これらの運動の成果としていくつかの歌集も刊行された。列記すれば、明治三十七年三月山田邦彦『えぞにしき』(山田は北海道庁視学官として札幌に居住)、三十九年九月河野常吉『北海百人一首』(明治維新、以後の作品を収録)、四十一年前記山本露滴『金盃』(大正六年に岩野泡鳴編『山本露滴遺稿』が発行)、大正九年七月南須原彦一『力の断片』(南須原は詩、創作にも活躍)、十年上杉勇次『懺悔行』、十一年一月遠藤勝一『林檎の花』、同年三月辻義一『生長する草木』(辻は農科大学卒、同人誌『路上』を創刊)などである。短歌もこの時期、興風会のような旧派が中心の時期からしだいに新しい運動が発生し、『野の花』の流派の添削の否定の方針にみられるように、日本の社会に当時広くみられた家元制の否定とみられる方向を志したものもあり、この意味でも近代的な運動が成立していった。