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統制経済の拠点

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 日中戦争がはじまると、総力戦に備えて国家総動員法が公布され、人も物もすべてが戦争遂行に動員されるようになった。生産も流通も消費も自由な活動は認められず、国家の方針にもとづき、これに沿わぬ活動は違法行為として処罰された。さきにふれた農業においても、食糧生産を優先し、軍需作物の増産が奨励されたので、たとえば玉葱栽培は非常時に不向きとされ、水田への転換、麦や馬鈴薯を植えるようすすめられた。それでも玉葱を作ると農具や肥料の配給を停止されてしまう。しかたなく鰊粕などをヤミ買いすると、すぐに統制違反者として検挙される酷しさだった。
 こうした国策の根本方針は動員として、統制として、配給として、取締りとして市民生活の全体を規制することになったが、それは道庁の権限においてなされた。道庁は統制業務をそれぞれの団体会社を通して実施に移したが、全道ないし道内広域を管轄する団体の多くが札幌に所在していたため、札幌は統制業務をコントロールする拠点とならざるを得なかった。
 昭和十三年版『札幌市統計一班』をみると、次のような団体の事務所が札幌にあった。北海道農会(以下「北海道」を略)、林業会、実業組合聯合会、畜産組合聯合会、園芸会、酒造組合聯合会、石炭鉱業会、卸売市場協会、味噌醬油醸造組合聯合会、工場協会、水産会、北水協会、スキー工業組合聯合会、建具工業組合聯合会、護謨工業組合聯合会、鉄銅製品工業組合聯合会、ホームスパン工業組合、莫大小工業組合、家具建具工業組合聯合会、玉葱輸出同業組合、中央米穀商同業組合、木炭同業組合聯合会、山林種苗同業組合、信用購買販売組合聯合会、製酪販売組合聯合会、緬羊組合聯合会等々まだまだ数え上げることができる。それぞれの業務内容にそって道庁の指示を受けて統制業務にかかわり、これに生産、流通、消費のすべての関連会社が従わなければならなかった。このため企業が統制経済下で営業を続けようとすれば、札幌に本社なり支店を構えなければ不利になってきたのである。
 統制経済の円滑化のために新しく設立された団体会社もある。北海道食糧営団はその代表格で、昭和十七年食糧配給の欠陥を除き戦時生活の確立をめざしつくられた。主食の米はもとより味噌、醬油、砂糖等あらゆる食糧品が統制となり、配給栄養量は机上計算で一四〇〇キロカロリーにすぎなかったが、それすら十分に配給されず、砂糖はのちに配給停止になった。こうした配給業務を一元化しようとしたのが食糧営団で、やはり札幌に活動の拠点を置き、市内四万五〇〇〇世帯に公区を通して日々の物資を配給した。全道を営業範囲とする統制会社の本社も札幌につくられた。たとえば、全道一一の新聞社が、昭和十七年十一月に統合し『北海道新聞』が生まれ、その営業拠点は札幌に置かれた。
 このように統制経済の拠点に札幌が位置づくことにより、金融機関も札幌に進出するようになった。早くは日本興業銀行が昭和十二年十月に北海道支店を開設して中小商工業者への融資を始め、十四年十一月には恩給金庫が支店を小樽から移し、事務所を大通西一四丁目に新築した。さらに日本銀行は十六年札幌に支店新設を決め、翌十七年一月旧北門銀行跡を改築し業務を開始するにいたった。かつて日本銀行は札幌に出張所を置いていたが、明治三十九年八月に廃止になって以来三五年ぶりのことで、関係者を喜ばせた。

写真-6 北海道拓殖銀行本店(昭和11年頃)

 こうした動きを「我ガ市勢ハ逐年躍進ノ一途ヲ辿リ、最近ニ於テハ本道政教ノ中心地タルニ加へ、経済界ノ枢軸ヲ占ムルニ至リ、各種ノ統制団体営団ノ事務所ヲ始メ、各種銀行会社ノ支店乃至出張所新設ヲ見ル等、異常ノ発展ヲ遂ゲツツアリ」(札幌事務報告 昭17)と述べている。道内の経済活動は従来のまま各地にその基地があり、戦時下困難な状況の中でそれぞれ継続していたから、札幌が経済界の枢軸を占めるにいたったと言うのは過剰にすぎるとしても、生活、経済の全面統制をはかるコントロール拠点となったことは確かである。したがってこの時代においても札幌は小樽経済圏に含まれたが、小樽での物資の集散に札幌経由の統制力が及ぶことになり、敗戦後、札幌の経済力を強める布石となったのである。