ビューア該当ページ

区制から市制へ

25 ~ 26 / 1147ページ
 明治三十二年(一八九九)十月一日、北海道区制に基づく札幌区が誕生し、以後二二年一〇カ月にわたる区制期が展開する中で、市制施行はどのような過程を経て実現していくかを本節でとりあげる。
 札幌区の成立は北海道における地方自治の出発点であり、日本の地方制度の中に札幌を位置づけた意義は小さくない。とはいえ、本州府県における市町村と自治機能の上で大きな違いがあり、特別自治制と呼ばれる多くの制約をもっていた。すなわち、明治二十一年(一八八八)以来の市制とくらべ、①国の監督権が強く、それだけ区の自治権は弱かった。特に第一次監督官庁である北海道庁長官に権限が集中し、区の主体性を低下させた。②執行機関の権限を強化し、参事会を置かず、区長が区会の議長や委員会の長となって執行機関の優位性を確保していた。③したがって区会の機能は制約され、その議決事項は制限列挙式で枠がはめられ、自律性を損う結果となった(市史 第三巻三五頁)。
 こうした問題は早くから指摘され、区制施行早々から、札幌区会において区制の改正を主張する議員がおり(同前 九六頁)、函館においては区制そのものに反対し、市制を求める運動が当初から繰り広げられていたのである(同前 二四頁)。なおかつ府県制から北海道は除外されたままで、町村は一級、二級町村制という特別自治制であり、それすら施行されない戸長総代人制の地域が全道に広く存在していたから(同前 一九〇頁)、札幌区の自治機能を高め市制を施行しようとする動きは、指定諸島や沖縄県の地方制度とともに全国的視野に立って検討していかなければならない課題であったといえよう。
 そこで、この節では次の三点を通して札幌区に市制を施行するに至る経緯をみることにする。第一は内務省の出先機関である北海道庁と札幌区の関係である。道庁を札幌に永続立地させようとする区民の願いは、明治四十二年(一九〇九)の道庁庁舎火災を機に一応の決着をみて、道都としての地位を固める一歩となった。しかし、道庁には区を監督する強い権限があり、札幌区が自治の拡張を求めれば両者の間に難題を生じかねない。その調和調整克服こそ札幌区政の重要課題となったのである。第二に市制施行条件とは何か、それをいかにして整えることができたか、区と市の条件の違いは何であったかを考える必要があろう。第一次世界大戦は札幌を、そして北海道を大きく変えていった。人口は増えた、経済力もついてきた、「内地」に追いつこうとする努力も続けた。そして得たものと失ったものを清算する視点から市制施行を見ることが大切である。第三に大正デモクラシー運動の中で市制施行を考えてみなければならない。特に普通選挙の要求が大きな世論となって国政を揺るがす時に、札幌市制施行が実現したことに注目したい。デモクラシーの思潮と札幌自治の拡張はどのように繫がっているのか。以下、こうした視点から市制施行の経緯を見ることにしよう。