府県の市は、明治二十一年制定後改正が加えられてきた「市制」によって成立している。その第一七七条に「本法ハ町村制第百五十七条ノ地域ニ之ヲ施行セス」とあり、この条文によって町村制未施行の北海道や沖縄県に市は誕生し得ないから、札幌区を府県同様の市にするために、第一七七条の改正を法律によって実現しなければならない。これを市制中改正法律案として帝国議会に最初に提出したのは、武富時敏ら憲政会の衆議院議員であった。
大正八年(一九一九)十二月、第四二回帝国議会が召集されると、原敬内閣に対立する野党憲政会、国民党、新政会は、男子普通選挙の実現を目指して衆議選挙法の改正を強く要求し、これに連動する府県制、市制、町村制における公民権資格の見直しをはかろうとした。市制の改正案は、憲政会と国民党から各々出されたが、選挙被選挙権の年齢など多少の相違はあるものの、納税条件撤廃という点で一致していた。第一七七条の削除により、北海道と沖縄県に府県並の参政権自治権を広げる案は、前者に含まれて後者にはなく、国民党は自案を撤回し、憲政会提案に一本化し、デモクラシーの高揚をはかろうと働きかけた。
憲政会の市制中改正法律案は、第一七七条を全文削除し、附則で「北海道及沖縄県ニ於ケル区ハ本法施行ノ日ヨリ之ヲ市トス。前項ニ依リ区ヲ市ト為スニ付、必要ナル事項ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」とし、大正九年五月一日より施行を求めるものであった。衆院本会議では大正九年二月二十日、本田恒之議員が主旨説明を行い(第一読会)、委員会への付託が決まった(帝国議会衆議院議事速記録 第四二回)。府県制中改正法律案外八件を審議する委員会は、一八人の議員からなり、委員長を小田切磐太郎とすることになったが、その六日後に衆議院は解散となり、法案は実質審議に入らぬまま廃案となってしまった。政友会を与党とする政府は、普通選挙制が社会を変革する危険なものとし、議会を解散し総選挙による国民の判断を求めたのである。
阿部札幌区長が、全国市区長会議で訴えた市制施行の願いは、こうして憲政会に受けとめられ市制中改正案として帝国議会の議場に登壇するに至った。やっとここにたどり着いた思いとともに、あと一歩の踏み込みが必要であることも明らかになったといえよう。
一方、道庁から北海道区制の撤廃、市制施行の上申を受けた内務省はどのように対処したのであろうか。まず「北海道ノ区ハ之ヲ市ト為ス」ために新しく勅令を定め、大正九年四月一日から施行する六条からなる勅令原案を道庁に示し、その検討から五条の勅令案が作成された。すなわち第一条で北海道の市は市制と付随の命令に依ることを原則とし、府県制未施行地における例外条項を規定し、第二条は市と町村の廃置分合による境界、第三、四条で参事会関係、第五条に懲戒審査会を定めた。これへの意見を求められた道庁では、のびのびになっていた回答を大正八年十二月二日付で内務省に送り、一、勅令の名称を「北海道市制」とすること、二、懲戒審査会の会員は道庁高等官三人を四人とし、道会議員を含めないこと、三、附則に北海道区制の廃止を明文化すること、四、「本令施行前ニ為シタル処分」を「本令施行前ニ北海道区制ニ依リ為シタル処分」と修正してほしいと述べている(町村制改正 道図)。