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議長・副議長

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 市会は「議員中ヨリ議長及副議長一人ヲ選挙」(市制第四八条)して、「会議ヲ総理シ、会議ノ順序ヲ定メ、其ノ日ノ会議ヲ開閉シ、議場ノ秩序ヲ保持ス」(同第五七条)ることになった。任期は議員の任期に依ったから、各期市会議員の選挙後初の市会でその都度選出され就任した。
 初代議長選挙は市会成立の初日、大正十一年一月十九日に行われ、松田学二六票、関場不二彦七票、村田不二三高岡熊雄が各一票を得、副議長選では関場が三二票、阿由葉宗三郎納谷信造が各一票で、松田と関場が就任挨拶のあと直ちに議事を進めた。以後第六期市会議長選(昭17・10・19)に至る動きは表9のとおりであり、村田・本間の正副議長時代が長く続いた。その中で第一期市会は初代副議長が選挙無効で再選挙となり、二代目就任間もなく死去して三代目に替わるという事態を生じた。
表-9 議長・副議長一覧
議長副議長
1期松田学大11.10.19~大15.10.2関場不二彦大11.10.19~大13.3.20
長谷川哲三郎大13.11.5~大13.11.14
木下三四彦大13.12.25~大15.10.2
2期村田不二三大15.10.25~昭5.10.2黒沢酉蔵大15.10.25~昭5.10.2
3期村田不二三昭5.10.13~昭9.10.2本間久三昭5.10.13~昭9.10.2
4期村田不二三昭9.10.15~昭13.10.2本間久三昭9.10.15~昭13.10.2
5期本間久三昭13.10.18~昭17.10.2若狭由次郎昭13.10.18~昭17.10.2
6期村田不二三昭17.10.19~昭22.4.29笹沼孝蔵昭17.10.19~昭18.12.26
福島利雄昭19.2.15~昭22.4.29

 初代議長になった松田学(一八五六―一九三八)は兵庫県の出身で、徳島県庁、大蔵省を経て明治十八年(一八八五)根室県庁に転勤、のち道庁や台湾にも在職した。三十一年官を退き札幌に移り、商業倉庫会社、札幌木材会社、札幌調帯会社等に関わり、定山渓鉄道創立者の一人ともなった。四十四年札幌商業会議所副会頭、大正二年同会頭に就任し、三年衆議院補欠選挙に当選した。札幌市会議員には大正十一年初当選し、同時に議長に選出された。
初期の市会議長として複雑なる市政に凄い切れ味を見せ、電車買収、下水道五ヶ年計画、小学校拡充第一期五ヶ年計画など〝名議長〟の肩書を恣にした。氏の功績は現在の〝近代都市札幌〟を見るにつけ、今にして深く偲ばるゝものがある。特に議長に推薦されるや、その温床たる民政党を脱し、公平なる立場にあって只管市政の向上に専念した事は、氏の潔癖なる性格を良く物語るものであり、十四年間終始札幌市に尽瘁した撓まざる努力と共に床しい語り草となってゐる
(樽新 昭13・1・12)

 昭和十二年市政功労者表彰式の席上で倒れ、翌年札幌市の自宅で死去し、独立教会で葬儀が営まれた。
 二代目議長になったのが村田不二三(一八六九―一九五七)である。市会における議長選挙で、代筆投票問題が起こり紛糾したあげく、市会廓清札幌市民大会まで開かれ、再選挙の結果、同数年長者として議長に就任したが、以後三、四、六期の議長もつとめ、札幌市会の顔となった。鳥取県の出身で、明治二十四年東京法学院を卒業し、二十六年札幌に来て弁護士を開業、のち弁護士会を設立してその副会長、会長を歴任することになる。三十七年から道会議員、昭和五年衆議院議員に当選した。市会議員としては第二期区会(明35)に議席を得て以来、第六期市会(昭22)までの間で一期を欠いたのみである。「健弁縦横、機略横溢、嘗て道会内政友派の同志、松月の二派に分れ互に相争ふや、君は実に其同志派の首領として画策最も努め、以て其の主張を完ふせり」(鈴木源十郎 札幌紳士録、市史 第三巻八七頁)との評がある。米寿を迎えて札幌市の自宅で死去し、檀徒総代であった中央寺で葬儀が営まれた。
 村田議長に挾まれ、五期目の議長をつとめた本間久三(一八六七―一九五一)は、三期、四期を副議長として村田を助けたので、政派の違いを越えた親密なつながりがあったのだろう。新潟県の出身で、明治二十一年から米雑穀商を営み本道雑穀界の飛将軍といわれるに至った。さらに金融業に進出し「一巻の立志伝を編するに足る」が、「議論を避け、実行を尚び、時勢を見るに敏、世の褒貶を顧ず所信を断行し、往かんとすれば鉄壁も貫く」(杉山潔 現代札幌人物史)人だという。明治三十二年初区会で議席を得、昭和十七年翼賛選挙からは立候補しなかった。昭和五年には道会にも議席を持ち、「憲政派の札幌市、将に来らんとする更衣期の集合的勢力者は誰か……其の器局の大にして抱擁力広く、智略を有し、実力ありて衆望を繫ぐに足る材幹」(同前)と評され、札幌市政に力を尽くした。松田、村田議長同様に札幌市で死去し、東本願寺別院で葬儀が営まれた。
 これら三議長は、政界引退後も札幌市に居を定め墳墓の地としたので、葬儀には多くの市民が弔問した。これは退任して札幌を離れる市長の多かったことと対照的である。