区制終期に常設、学務、常設土木、臨時水道調査、公園其他設営調査、公会堂臨時建築、病院臨時建築、臨時経画調査の八委員会が置かれていたが(市史 第三巻六二頁)、区制廃止にともないこれらも自然消滅することとなり、新たに市制第八三条によって市会発足当初に次の委員会が設置された。
常設土木委員会(大正十一年十二月八日告示四三号 常設土木委員会規程、土木及建築に関する意見開陳)
学務委員会(同前日告示四四号 市学務委員規程)
体育委員会(大正十二年五月二十二日条例二号 市体育委員条例、体育に関する調査計画、諮問に意見陳述)
臨時水道及電業調査委員会(大正十二年三月九日告示四五号 臨時水道及電業調査委員規程、調査事項の計画及実施上の意見開陳)
臨時財政調査委員会(同前日告示四六号 臨時財政調査委員規程、財政及財源に関する調査)
臨時電気軌道委員会(大正十四年三月三十日告示四五号 電気軌道買収に関する処理)
臨時社会事業調査委員会(昭和二年二月二十八日市会建議、同年四月二十八日告示六九号 臨時社会事業調査委員会規程、社会事業に関する調査、計画、実施上の意見開陳)
委員は市会議員、参事会員、市公民の三者で構成されたが、学務委員には学校教員が加わった。委員定数は委員会によって異なったが、任期は四年でのち二年となる。市会選出委員は市会で選挙し、参事会員からは市長選任、市公民からは参事会の選挙によったが、大正十五年市制改正でいずれも市長推薦により市会承認となった。
委員会によって繁忙、平穏の差があり、年一、二度開催するだけのものから、臨時とはいいながら常設以上の案件に追われた委員会もあった。その中でも水道及電業調査委員会は豊平川水利権、水力発電、上下水道等の大問題を抱え多忙をきわめた。たとえば「水利権獲得第一手段として、札幌電気軌道株式会社買収問題に支障を見、委員会に大激論を生ぜしめ久しく休会中であったが……来る十日午後一時より委員会を招集に決定、八日夫々各委員に対して招集案を通知した」(樽新 大13・4・9)との報道もみられる。
その後、昭和四年三月臨時電気軌道委が廃止になったが、さらに六年の市会に委員会の在り方について多くの意見が出され、臨時財政調査委の廃止、体育委を廃止して保健委を置く、社会事業委を臨時から常設とする、新たに都市計画特別調査委員を置くべしとの各建議が可決された。これにともない昭和七年には常設土木委、学務委、保健委、電気軌道委(再置)、臨時財政調査委、臨時水道及電業委、社会事業調査委、臨時税制調査委の各委員会となり、八年に庁舎改築委、十年に臨時市域変更調査委ができ、用務を終了して廃止となるものもあった。
十三年に至って委員会制度に大幅な改正が加えられた。まず学務委のほかに教育委員条例ができ、学務委の内から一〇人、学識経験者から三人、計一三人で小学校以外の学校教育と社会教育に関する調査を行い、市長に意見を開陳することになった。十五年には青年学校学務委もできる。また、委員会名に常設や臨時と冠していたものはこれを省き、さらに財政、税制を合わせて財政とし、水道電業電気軌道の事項を水道委、交通事業委に整理し、産業、警備の二委員会を新設した。十四年に臨時記念事業調査委を発足させるが、十五年十月二十五日をもって保健委、教育委、財政委の三条例と土木委、社会事業委、水道委、交通事業委、産業委、警備委の六規程が一斉に廃止されこれらの委員会はなくなり、委員はその職を失った。これは大政翼賛運動の一環として内務省が進めた「各種委員会等ハ成ルベク市町村常会ニ統合スルコト」(内務省訓令一七号 昭15・9・11)との方針による改正で、札幌市が先行していた公区整備と連動するものであった(本章四節参照)。
新たに札幌市常設委員会規程(告示一六九号 昭15・10・25)ができ、市会議員は教育、交通水道、土木警備、保健社会、産業経済、財政庶務の六グループに分かれて重要事項の調査審議を行い、市長に意見を開陳することになった。したがって学務委、青年学校学務委、臨時市域変更調査委の三委員会は、常設委員会とともに太平洋戦争終結時まで継続した。
都市計画委員会官制第八条による都市計画北海道地方委員については第三章一節で述べる。また市会の重要事項の審議に先立ち、または並行して、しばしば市会議員全員による議員協議会が開かれた。これは市会会議規則第三六条の小会議の条項にもとづくもので、非公開の秘密会で行われ、会議録も残されていない。市政推進の舞台裏がここで展開されていたことは想像に難くないが、開催年月日を市公報で確かめ得る程度で、協議内容についてはほとんど知り得ない。