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北海道会議員

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 市制施行当初の札幌市と石狩支庁(札幌支庁を改称)管轄町村選出になる北海道会議員は、大正九年選挙による第七期議員が十三年八月までその任にあった(市史 第三巻七九頁)。その後太平洋戦争終結にいたるまでに、道会議員の総選挙は八期から一二期までの五回行われ、札幌市選挙区では八、九、一二期内に、石狩支庁選挙区では九、一一期内に補欠選挙をそれぞれ行い、表10の結果をみた。
表-10 札幌市,石狩支庁管轄町村選出北海道会議員
選挙年月日札幌石狩支庁管轄町村
氏名備考氏名備考
8大13.8.10納谷信造河合才一郎
村田不二三黒沢酉蔵
斎藤亨昭2.12.29失格鹿野恵造
昭3.1.19高野精一斎藤の補選
93.8.10池田新三郎河合才一郎
村田不二三昭5.3.1辞任佐藤一雄
佐々木鉄之助許士善太郎昭5.7.7失格
5.5.24本間久三村田の補選黒沢酉蔵昭5.9.23許士の補選
107.8.10木下三四彦昭11.7.13辞任河合才一郎
池田新三郎白崎彦太郎
井川伊平小谷幸勝
笹沼孝蔵
1111.8.10正木清河合才一郎
戸津高知田中菊治
池田新三郎佐藤一雄昭14.2辞任
井川伊平
14.4.20小谷幸勝佐藤の補選
1215.8.10井川伊平河合才一郎
戸津高知宇野秀次郎
笹沼孝蔵昭18.12.26死亡田中菊治昭22.2.12辞任
正木清昭17.5.6辞任
17.7.18西村久蔵正木の補選
(無投票選挙会)昭18.4.7応召辞任
19.1.19復職
20.4.15応召再辞任
20.10.25復職
22.2.12辞任
1.氏名は得票数順。
2.『北海道議会史』『札幌の選挙』『札幌市事務報告』より作成。

 市制後初選挙となった第八期は、定数五五人のうち札幌市選挙区が一人増えて三人となり、石狩支庁選挙区は三人のままだが、第一〇期から札幌市が四人になった。道会定数はこの時六一人となり、第一一、一二期は六五人と増加したので、両選挙区の議席比率はむしろ低下したということができる。市の有権者数は表7の変化をみたが、道会では第九期から普通選挙となり、全道有権者はこの時四一万人を越え、前期の四・二倍に達した。「今期の選挙には本市では殊に黄白をまきちらして買収、地盤切りくずし等が盛んに行なわれ、一票二円という相場が半ば公然と流布される始末」(北海道議会史 第三巻)だったという。
 第一二期は全政党解党過程の中で選挙が実施され、多くの混乱をきたした。選挙運動は政党色を打ち出して進められたが、選挙後一段落してみると政党が消滅し、よるべき会派がなくなっていたのである。こうした中で六五議席に一七〇人を越える候補者が名乗りを上げ、札幌市は九人、石狩支庁一〇人が立候補したが、粛正選挙(本章四節参照)に反すると名指しされた前議員が割腹自殺する悲劇を生んだ。
 この時当選した正木議員がのちに衆議に当選して道会議員を辞任したため、昭和十七年七月補欠選挙が行われることになる。この時すでに大政翼賛運動が公区に浸透し、候補を公区推薦にしぼる準備が進められた。札幌市役所回覧板(樽新 昭17・6・23)では、「各公区より推薦された二名の準備委員にお集りを願ひ、左の通り〔道議候補者推薦〕準備委員会を開きます。委員の方は万障御差繰御出席下され、公区代表としての責務を果して下さい(後略)」と呼びかけている。こうして公区推薦を受けて一人が立候補すると、「届出タル議員候補者ノ数一人ニシテ、選挙スベキ議員ノ数ヲ超エザル為投票ヲ行ハザルコト、昭和十七年七月十一日確定シタルヲ以テ、昭和十七年七月十八日午前十時ニ選挙会ヲ開キ、選挙スベキ議員ノ数一人ニシテ被選挙権有リト決定シタル左ノ議員候補者(略)ヲ以テ当選者ト定メタリ」(札幌市事務報告 昭17)。こうした推薦過程についても後日物議を生じたが、市会議員選挙では多くの非推薦議員を誕生させたのである(本章四節参照)。
 第一二期議員の任期は十九年八月までだったが、戦時下非常時のため法改正がたびたびあって、ついに太平洋戦争後の二十二年四月三十日行われた新制度のもとでの選挙まで延長された。したがってその在任期間は実に六年八カ月に及んだのである。